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act.8月虹ワルツ<279>

葵が今夜の出来事を誰かに訴えなければの話だが、またああして部屋を訪れてもいいし、葵を呼び出してもいい。連絡先を押さえたのだからそのどちらも可能だ。 葵がああして若葉に縋ってきたことを考えると、まともな思考状態ではなかったのだと思う。一ノ瀬が起こした事件の時のようにどうせロクな記憶が残らない気がしていた。 次に覚醒状態の葵と接した時、彼はどんな反応を見せるのだろう。あれだけ懐いておいて、また何もかもなかった顔をするなら壊してしまいたくなりそうだ。 「で、今回はどんな話?」 若葉はそれ以上葵の話題を広げるのをやめ、上からの依頼とやらに軌道修正する。 「蝿を追い払ってほしいそうです」 「何それ。んなもん、俺じゃなくてもいいダロ」 例えられたもので対象がどの程度のレベルかは察する事が出来る。虫ケラ如きで動かされるのは気分が悪い。徹は“詳細はまだ分からない”と前置きした上で、依頼主が大物らしいことを告げてきた。 「しくじれない仕事、ということではないでしょうか」 若葉を評価しているような言葉にも聞こえるが、その程度で機嫌良く転がされるような馬鹿ではない。 「蝿にたかられるって、どんだけ腐ってんだろーネ。その依頼主サマとやらは」 わざわざ若葉の家に頼むことでさらに後ろ暗い部分が増えるというのに愚かなものだと思う。それを生業に金を稼いでいる若葉達が文句を言う権利はないのかもしれないけれど。 「人間誰しもそんなものじゃないですか?触れられたくない部分の一つや二つ、抱えているものでしょう」 まるで徹自身もそうだと言いたげな口ぶり。 確かに彼はその素性をちっとも明かそうとしない。何もかもを捨てたこの男を拾ったのはいつだったか。当時はそれなりに年齢差があるように思えたのに、彼の外見は出会った時からほとんど変わっていない。年齢の不詳さには年々磨きが掛かっているし、“矢沢徹”という名もおそらく本名ではない。 でもそれは若葉にとっては些細なことだった。今、彼が若葉の忠実な僕として存在していればそれでいい。 「確かに。それはそーかもネ」 相槌を打ちながら、若葉は葵のことを思い浮かべる。 “パパ”と何があったのか。あの癖は何なのか。葵にとって触れられたくないことなのだろうか。 そもそも葵自身の情報は、京介や冬耶が可愛がっている幼馴染というぐらいしか認識していない。どんな家の生まれで、どう育ってきたのか。あんな風にうなされた姿を目の当たりにしたら俄然興味は湧いてくる。 「テツ。葵チャンのこと、調べといて」 「……以前仰っていた件ですか?」 若葉の唐突な依頼にも、徹はいたって落ち着いた声音で返事を寄越してきた。 一ノ瀬の部屋に無数に貼ってあった写真の中で、若葉が手に取ったのは色のない表情を浮かべた葵。古い記憶とリンクするような不思議な感覚を覚えたことは徹に告げていた。だからゆくゆくはこうして若葉から頼まれることも、想定していたのだろう。 「それもそーだけど、あいつの家族、特に父親のことが知りたい」 若葉とどこかで接点があったのかももちろん気になるが、今は生い立ちのほうが興味をそそる。若葉の指示に、徹はミラー越しではなく直接チラリと視線を投げてきたが、黙って頷きを返してきた。 「さて、何が出てくるか?」 葵が遠慮なしに付けた涙の跡が残るシャツを見下ろしながら、若葉は誰にともなくそう呟いた。

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