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act.8月虹ワルツ<281>
「葵、入るぞ」
ノックと共に響いた声は忍のもの。葵が返事を返す前に、寝室の扉も開けられた。いつも通り一分の隙もなく身支度を整えた忍を先頭に、櫻や奈央、それに珍しく幸樹の姿まであった。
彼らはベッド脇にうずくまる葵を見てすぐに駆け寄って来てくれる。真っ先に額に手を伸ばされたのだから、きっと熱があるのだと分かりやすい見た目をしているのだと思う。ひんやりした忍の大きな手が心地よい。
「大分熱が高いな。医者に連れて行くか」
「葵ちゃん移動させるより、来させたほうがいいよ」
「でもこの時間ってまだ橘先生、出勤してないんじゃ」
「ほな、やっぱ病院連れてったほうがええんちゃう?」
葵を取り囲む先輩たちが一斉に相談を始めるが、このぐらいの発熱は葵にとっては日常の一部。それに、宮岡の存在には随分慣れたけれど、基本的に病院や医者は苦手だ。連れ込まれたくはないという気持ちが先行する。
「大丈夫です、ちょっと横になったら治るので」
四人の会議に口を挟むと、揃って疑わしい目が向けられた。カラカラに乾いた喉のせいで、声がひどく掠れていたことが彼らの心配を煽ってしまったらしい。でも主張し続けると、今日一日学校を休むことを条件に病院に行く判断は見送ってもらえることになった。
「葵くんが食べられそうなもの持ってくるね。西名くん達にも休むこと伝えておく」
ベッドに押し戻された葵に、奈央はそう声を掛けると足早に出て行ってしまった。幸樹も氷枕を調達してくると言って、奈央の後を追うように去ってしまう。隣のリビングからは忍が誰かに電話を掛けているらしい声が微かに聞こえてくる。
傍に残ってくれたのは櫻。ベッドサイドに腰を下ろして、こちらを見下ろす表情はいつも自信に包まれている彼には珍しく、どこか不安そうなものだった。
「僕のせい?」
彼の綺麗な指先がなぞるのは腫れた目元。泣いたことを示唆したいのだと思う。
「悩ませちゃったかな」
続いた言葉で、彼が何を不安がっているのかを理解した。昨夜櫻から渡された招待状。それが葵を泣かせる原因になったのでは、と考えさせてしまったのだろう。
「いえ、違います。うれしかったです、すごく」
葵にとってはまさしくご褒美となる贈り物だった。それは紛れも無い本心。真っ直ぐに櫻の瞳を見据えて伝えれば、彼は思い詰めた表情を和らげた。けれどまだ眉はひそめられたまま。
「それじゃあ、これも違う理由?」
「……え?」
目元を外れた櫻の指先が移動した先は葵の手首。つられるように視線をやると、そこには昨夜なかったはずの傷跡が浮かんでいた。しばらく治まっていたはずの悪い癖が再発してしまったらしい。
櫻には以前この傷跡を見られている。その時の彼は葵の癖を受け入れてくれただけでなく、自らの背にある傷まで見せてくれた。だからこうして見咎められても極端に取り乱さずに済む。ただ少なからず動揺はさせられた。昨夜バルコニーに出た後の自分の身に一体何が起こったのだろう。
「覚えてないです。多分寝ながらしちゃったのかもしれません」
「そう。前にもあったの?」
無意識のうちに噛んでいたことは何度もある。素直に頷くと、櫻は困ったように目を細めた。窓から差し込む陽の光が、彼の長いまつ毛に影を落とす。その影すらも美しい。
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