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act.8月虹ワルツ<282>

「引き止めれば良かった。帰したくなかったんだ、本当は」 そう言って彼は額にキスを落としてきた。火照った肌には唇の感触すら心地よく感じる。でも身を任せてはいけない。 「うつっちゃうかもしれないので」 「風邪じゃないって自分で言い張ったくせに」 「それは、そうなんですけど」 力の入らない腕で櫻の肩を押し返すと、拒まれたことが不服だったのか、櫻はキスしたばかりの場所を指先で突いてきた。でも意地悪な表情は一瞬で、すぐにまた眉がひそめられた。 「疲れてるんだよ、きっと。無理しなくていいから。もうこれっきりってわけじゃないんだし」 演奏会には来なくていいとそう言いたいのだろう。でもその言葉を素直に受け入れるつもりはない。櫻がせっかく一歩踏み出して葵に手を差し伸べてくれたのだ。その想いに応えたい。 「すぐに治します。絶対に行くので、待っててください」 「……じゃあ期待はしないで待ってる」 葵に引くつもりがないことを察してくれたのか、櫻はそれ以上の押し問答はせずにこのやりとりを切り上げた。でも葵に無理強いさせる形になるのは嫌なのだろう。その言い回しは櫻らしい。 「葵、薬は飲めるか?」 寝室に戻ってきた忍の手には水の入ったグラスと、錠剤が握られている。喉は渇いているが、出来ることなら薬は飲みたくない。思わず逃げるように布団を被り直せば、忍も櫻も揃って笑い出した。 「薬苦手なんだ。お子様だねぇ、本当に」 「粉のほうが得意なだけです」 言い訳してみたけれど、全く信用していない顔をされた。 でも水分で流し込むことが出来る粉末のほうがマシなのは本当だ。口に広がる苦味も、甘いジュースを重ねれば和らいでくれる。カプセルや錠剤は異物感が強く、どうしても飲み込むのに苦労させられるのだ。 「手伝ってやろうか?口移しで」 櫻が腰掛けているのとは反対のベッドサイドにやってきた忍には乾いた唇をなぞられた。葵を見下ろす眼鏡越しの瞳も、触れてくる指先も、どこか色っぽく感じる。 「口移しだと飲みやすくなるんですか?」 「……あぁそうか。お前には通じないのか」 「残念だったね、可愛い反応が見られなくて」 真面目に尋ね返すべきではなかったのかもしれない。頭上で交わされる二人のやりとりにそんなことを思うが、喉の渇きが限界に達しそうだった。グラスを見つめてごくりと喉を鳴らすと、それに気付いた忍がグラスだけを差し出してくれた。 水を二、三口飲んで再び布団にくるまれば、自然と眠気が訪れてくる。それに幸樹が持ってきてくれた氷枕に頭を預けると、その心地よさでより一層瞼が重くなった。 微睡んでいるうちに奈央が朝食を運んで来たけれど、体を起こすのはもう困難な状態だった。 「ここに置いておくから、食欲が湧いたら食べてね」 せっかく用意してくれたというのに、一口も手を付けられなかった。奈央はそんな葵に気を悪くするでもなく、トレイをサイドテーブルに乗せながら穏やかに笑いかけてくれる。 トレイに置かれた皿からは甘酸っぱいりんごの香りが漂ってくる。その香りは歓迎会での出来事を思い出させた。あの時、発熱した葵は奈央にりんごが食べたいとリクエストした。そのことを覚えていてくれたのだろう。嬉しさと同時にチクリと胸が痛む。 彼の帰りを待たず、幸樹と二人で部屋を抜け出したことや、そのあとに自分がしでかしたことも思い出してしまったからだ。どれほど心配を掛けただろう。今だって強がった挙句、こうして彼らに面倒を見てもらっている。情けなくて仕方がない。

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