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act.8月虹ワルツ<285>
「しばらくここで様子見るけど、葵ちゃんの体調次第では連れて帰るかも。その時は連絡する」
「分かりました。医者や車の手配が必要なら言ってください」
「うん、ありがとう」
忍の申し出は有り難く受け入れたが、もしも医師を呼ぶとしたら宮岡が適任だろうと思う。車なら冬耶を呼び出せばいい。
遥の登場をきっかけに、役員たちは皆部屋を出て行こうとするが、都古はやはり葵の傍から離れたがらなかった。ベッド脇に座り込み、葵の寝顔をジッと見つめてちっとも動く気配を見せない。自傷の癖が出ていると知ってより一層不安になるのは分かるが、彼の我儘を聞いてやるわけにはいかない。
「都古、約束したよな?授業出るって」
肩を叩いて促すが、彼は微動だにしない。それどころか、もう一度呼びかけると、葵の首筋に顔を寄せて甘えるような仕草をとった。あっさり離れたがらないことは予測していたが、この聞き分けのない猫をどうするべきか。
思案しているうちに、都古の表情が急に険しさを帯びた。何かを確かめるようにスンと鼻を啜ってますます眉をきつくひそめてしまう。
「どうした?」
「……イヤな匂い」
遥への返事というよりまるで独り言のようにそう呟くと、都古はバルコニーのある窓辺へ向かってしまう。薄く開かれていた窓に手を掛け、体を外に出すとその周囲を探るように視線を巡らす。
部屋ごとに独立したバルコニーには何もおかしなものなど置かれていない。それは室内にいる遥でも確認できるというのに、都古は一体何をしているのか。
難しい顔をして戻ってきた都古は、もう一度葵の傍に寄って優しく髪を撫でると無言で部屋を出て行こうする。彼の行動を訝しみながら見守っていた全員の視線に応えるつもりはないらしい。
「ちゃんと授業出ろよ」
このまま教室に向かうかも怪しい。釘を刺してみるが、都古はチラリと視線を投げてきただけで、何も言わずに立ち去ってしまった。苦笑いを浮かべた後輩たちもそのあとに続いていく。少なくとも校舎までは都古を監督してくれるつもりなのだろう。
ベッドサイドに置かれていたりんごはカットされてから少し時間が経ってしまったようだ。茶色く変色してしまったそれを一度キッチンに運び、葵が食べやすいようにすりおろしてやる。そうすれば、変色もそれほど気にならずに済む。
ついでに、葵が食欲をなくすといつも食べさせていたたまご雑炊を作ってやる。予想通り冷蔵庫の中身は空っぽだったから、食材を持ち込んで来て良かった。
すりおろしたりんごを持って寝室に戻ると、深い眠りについていたはずの葵はゆったりとした瞬きを繰り返していた。周囲の人の気配が失せるのには敏感なのだ。こんな性質も、葵の心に刻まれた傷のせいだと思うとやりきれない気持ちにさせられる。
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