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act.8月虹ワルツ<288>

「会いたい?」 「……皆とバイバイはしたくない」 遥の問いに対する直接的な回答ではなかった。でも馨への恋しさが前提にある答えだ。 「バイバイは、嫌だ」 馨の話をしているようで、葵は遥の目をしっかり見据えて手を伸ばしてくる。遥はそれを迷わず握ってやった。 そう遠くない未来、またこの手を離さなければならない日が来る。その日を連想したのは遥だけでなく、葵も同じなのだろう。繋いだ手に力を込めて、今度は遥の名をはっきりと呼んできた。 留学を告げた時や卒業式、空港でも、葵は遥を引き止めるようなことは言わなかった。別れを惜しむようなこともほとんど口にしていない。ただ遥を応援する言葉ばかりを自らに言い聞かせるように発し続けた。だからこんな風にストレートな感情をぶつけてきたのは熱の効果かもしれない。 「葵ちゃんとずっと一緒に居るために選んだんだ。お別れするつもりなんか全くないよ」 葵にこの気持ちの全てが伝わってくれるとは思わない。親友にさえ理解されないのだから。葵は案の定難しい顔になってしまった。繋いだ手に力を込め、もっと分かりやすい言葉を求めるような目を向けてくる。 でもこれ以上の表現を選ぼうとすると、今自分に許している範囲を大きく超えた直接的に愛情を伝える言葉しか思い浮かばない。それを囁いたところで、葵にはまだ理解が出来ないだろう。 「……パパも、そうだったのかな」 「どういうこと?」 ゆったりとした口調は葵が眠気に襲われ始めたことを示している。でもその発言を聞き流すことが出来なかった。 「あれは、本当のお別れじゃなかったのかもって」 共に歩む未来のための一時的な別れ。遥が留学の理由をそう表現したことを、過去の出来事と重ねて咀嚼しようとしているらしい。 馨は葵を捨てたわけじゃない。いつか迎えに来るための、やむを得ないお別れ。そう解釈すれば、あの時の葵の心は救われる。でもそれは遥たちにとっては望ましくない傾向だった。 葵が馨の言動を少しでも好意的に解釈しようと試みる心情は危険でしかない。だが正すためには馨の抱える歪みきった愛情を理解させなくてはならなかった。過度に馨を憎ませたいわけでもないし、葵を混乱させたいわけでもない。 どう声を掛けるべきかを悩むうちに葵はウトウトと頭を揺らし始めた。今はこれ以上の会話を広げるべきではないだろう。 もしも馨が葵に接触する機会を得てしまえば、間違いなくこの心の隙に付け入られる。ただでさえ葵にとって馨は絶対的な存在なのだ。いくら葵が今の生活を大事に思ってくれていたとて、うまく誘導され、馨の手中に収められることが十分に考えられる。 会いたいと願う気持ちまでは潰さない。頑なに反対すればするほど葵が極端な行動を取りかねないから、冬耶とそうして方針を立てたものの、やはり絶対に会わせてはならないと強く感じる。 西名家のもとで十年の年月を掛けて大切に育てられてきたこの子は、まだ自分の心と体を守る術を知らないからだ。 「……帰れないな、このままじゃ」 離れているあいだにまた何かが起きてしまえば、今度こそ自分の判断を許せなくなる。葵の寝顔を見つめながら、遥は徐々に力の抜けていく小さな手を握り直した。

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