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act.8月虹ワルツ<292>

七瀬には制服のシャツを引っ張られ、綾瀬からは宥めるように名を呼ばれる。挑発に乗るなと言いたいのだろう。けれど、奴にはこのエリアを我が物顔でうろつかせたくはない。 視線を絡ませたまま顎で階段のほうを示せば、彼は尖った歯を覗かせた笑みで返事をしてきた。 誘導した先は校舎の屋上。辿り着くと同時に、五限の始まりを告げるチャイムが鳴り響く。 「葵チャンは?」 黙って数歩後ろを着いてきた若葉は、前置きもなく葵の名を口にした。あの場に居たのはやはり葵が目的だったようだ。 「葵に何の用?」 「遊ぼうってお誘い」 「葵に関わらせる気はねぇよ。前も言ったよな?」 周囲の忠告を素直に聞くどころか、ますます興味を深める性格であることぐらいは承知している。でもここまでストレートに求めてくるのは予想外だった。 幸樹が本命だと宣言したからか、それとも冬耶への意趣返しか。はたまた京介をからかって楽しんでいるのか。何にせよ、葵はすっかり若葉のターゲットになってしまっているようだ。 正直なところ、彼と戦って勝てる見込みはない。それなりに腕に自信のある京介だからこそ、彼の非情さと身体能力の高さには敵わないと分かるのだ。でも葵に何かをするつもりならここで止めなくては。 幸樹には屋上への階段を登る最中に連絡を入れておいた。彼が早くに駆けつけてくれれば、共闘して若葉を捩じ伏せられる可能性はある。 「あぁ、そういや“二度と触らせない”んだっけ?」 「それがなんだよ」 前回対峙した時の発言を蒸し返し、まるで京介の反応を楽しむように金色の瞳が薄められる。何もかも癇に障る男だ。 「その気持ち、変わってないの?」 「当たり前だろ」 京介の返事を受けて、若葉は一瞬笑みを失くす。彼が思い描いていたはずの反応をしてやっただろうに、一体何が面白くなかったのか。探るように睨みつけると、彼はすぐにいつもの表情を取り戻すが、違和感が胸に残る。 「葵チャン、なんで休んでんの?」 「休みって知ってんなら理由も聞いてんだろ?んなこと確認したくて待ってたのかよ」 てっきり葵の帰りを教室前で待ち構えていたのかと思いきや、既にクラスメイトを捕まえて不在は確認した後だったらしい。それなら余計に彼の行動に疑問が残る。 「風邪ってホント?」 「てめぇには関係ねぇだろ」 やはりきちんと欠席の理由も確認済みらしい。それならばなぜ、とますます訝しみたくなるが、若葉はそれで気が済んだのか、あっさりと京介の前から姿を消すことを選んでしまった。 そのすぐ後に息を切らした幸樹が屋上に上がってくる。どうやら途中で若葉とすれ違ったらしく、てっきり京介がやられたと思ったらしい。見るからに無傷の京介を確認し、あからさまに安堵した表情を浮かべてくる。 若葉とのやりとりを伝えれば、幸樹も同じように彼の言動を不思議がりはしたが、その理由には心当たりがないようだった。 吹きっさらしの屋上に居る時はそれほど気にならなかったが、校内に戻るとまるで彼の足取りを記録するかのようにそこかしこに若葉の香りが残っていることに気が付く。やけに鼻に付くその香りは、京介に嫌な胸騒ぎを覚えさせた。

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