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act.8月虹ワルツ<296>

* * * * * * あとはよろしく、そう言って身支度を整える遥の姿を、葵は今にも泣き出しそうな顔で見つめている。朝に比べれば熱は大分引いたようで、頬の赤みも薄れているがそれは単に薬が効いているだけらしい。 きっとまたぶり返すから明日も休むように。何年も葵の面倒を見てきた遥の言葉には説得力があるように感じたが、本人はあまり納得しない顔をするだけだった。 部外者となった遥を付き添いなしで帰すわけにはいかず、奈央がその役目を買って出れば、室内は忍と葵の二人きりとなった。忍の部屋よりは櫻のピアノの音色が小さく感じるこの場所で、葵は気まずそうに口を開いた。 「……あの、もう一人で大丈夫です。ありがとうございました」 葵のことだから忍の時間を使っていることに対して罪悪感を覚えているのだろうが、帰そうとしているわりに心細そうに見える葵を一人にしておけるわけがない。 「二人で話しておきたいことがあると思ったんだが、本当に帰っていいのか?」 忍がサイドテーブルに視線を投げると、葵もつられて顔を動かした。落ち着いた色味のサイドテーブルの上には、ランプと共に濃紺の封筒が置かれている。それが何かは、同じものを受け取った忍なら確認せずとも理解出来た。 「あ、そうでした。これ、試験をがんばったご褒美だって櫻先輩にいただいたんです」 「そうか。それで、葵はどうしたい?」 意思を確かめれば、布団の上に置かれた両手がぎゅっと握られる。あまり楽しい会ではないと脅すような言葉ばかりを与えてしまったから、葵が気後れするのも無理はない。 でも葵は深く呼吸をついたあと“行きたい”と言い切った。一緒に連れて行って欲しいとも乞われて、断る理由は何もない。忍のほうはもう準備を整えていて、櫻が腹を括るのを待っていたのだから。 「会長さんの親戚として、ですか?」 「あぁ、基本的には月島家と関係の深い相手だけを呼ぶ会だから。招待状があろうと、受付で止められる可能性がある」 北条家の一員として同伴させる案を話すと、さすがに戸惑いの色が滲んだ。身分を偽って参加することへの抵抗や、うまく振る舞えるかの不安が窺える。 「櫻は今まで俺や奈央ぐらいしか呼んだことがない。もちろん家同士の付き合いが前提の招待だ。初めて個人的な招待をした相手が来たなんてバレたら厄介なことになる。櫻とは何の接点もないよう演じたほうがいい」 嘘ではないが、それが親戚のフリをさせる理由の全てでもない。 葵が藤沢家の子息である事実を誰にも悟らせないようにするというのが、忍に課せられた使命だ。葵本人は自分の生まれや育ちを忍には知られていないと信じていることが事態を複雑にしている。だからこうした回りくどいやり方をするしかない。 櫻に迷惑を掛けることをチラつかせれば、葵の首がようやく縦に振られた。

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