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act.8月虹ワルツ<304>
「どんなご褒美がいいの?」
「なんでも、いい?」
「ううん、そうじゃなくて、一旦みゃーちゃんの希望聞かせてってこと」
気を抜くととんでもない要求をされかねない。都古のペースに巻き込まれないよう注意しながら返事をすると、今度は言葉でなく行動で葵を翻弄してくる。近付いてきた唇が何を求めているかは想像がつく。それでも乱暴には奪わず、必ず葵の許可を求めてくるところがいじらしい。
「いい?」
「これが、ご褒美ってこと?」
「ううん、挨拶。ご褒美は、もっと……」
“すごいの”と耳元で囁いた都古は、そのまま耳たぶを啄んでくる。背筋が震えたのはくすぐったさだけが理由ではない。都古の言う“すごい行為”を想像してしまったからだ。
「……ん、みゃーちゃん、もう行かなきゃ」
耳や首筋ばかりを執拗に吸ってくる猫の肩を押して主張すると、最後にと唇まで奪われた。
「帰ったら、しよ。ね?」
この誘いに迂闊に乗ってはいけないとは思う。でもたった一週間だというのに、久しぶりに都古と触れ合えたことは、恥ずかしさだけではなく、葵に安心感も与えてくれた。それに離れることが名残惜しいとも感じる。
部屋を出る前にもう一度唇を重ねて、体の奥底に疼く熱の感覚もはっきりと自覚してしまった。
都古とは一旦エレベーター前で別れたが、彼は校門までの道のりも付き添ってくれるつもりらしい。
冬耶だけでなく都古も待たせている状態なのだから、すぐに着替えを済ませ、一泊分の荷造りをして向かわなくてはいけない。それが分かっていても、遥に教わったことが頭をチラついて離れない。
あれから結局一度だって自分の手で練習することは出来なかった。それを今になって後悔する。きちんと練習しておけば、中途半端にくすぶった体をどうにか治めることが出来たかもしれないのに。
一瞬、挑戦することが頭を過ったが、失敗したらそれこそ大惨事になる気がする。だから葵は熱が芽吹いたままの体をシャツとデニムで包み、カバンを持って部屋を飛び出した。
別れた時の姿のまま、都古はエレベーターホールで葵の帰りを待っていた。涼しげな顔が少しだけ憎らしい。
「みゃーちゃん」
思わず救いを求めるように名前を呼んでしまうが、都古は手を繋ぐ以上のことをしてはくれなかった。“また今度”と囁いてきたからには、葵の困りごとを理解している気がする。
葵がはっきり口に出して求めれば、それこそ彼が好む“命令”でもすれば喜んで手助けしてくれるのだとは思うけれど、さすがにあんな行為をねだるなんて葵には勇気が出ない。
校門に辿り着く直前、ダメ押しのようにまたキスをされた。意地悪だ。そう思うのに、風に揺れる黒髪も、葵だけに優しく薄められる切れ長の目も、愛しくて堪らない。
次に彼が求めてきた時にきちんと拒めるか、自信がなくなってしまった。それどころか京介と二人がかりで触れられたあの夜のように、自分から求めてしまう可能性だってある。
両手を広げて待ち構えてくれる冬耶の元に向かいながらも、葵は少し先の未来を想像しては頬を火照らすのだった。
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