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act.8月虹ワルツ<306>

結局葵は懸念通り、定食のセットを完食することは出来なかったが、その代わりデザートはしっかりと食べ切ってみせた。冬耶の分のゼリーも分けてやれば、それも頬張って満足そうに笑う。 「そういえば葵ちゃん、和菓子も好きだったな。今度作ってみようか」 葵の口元に付いた抹茶のパウダーを己の指で払ってやりながら、遥は葵を喜ばせる提案を口にした。父親の影響もあって、彼が作るのは菓子でも料理でも洋風なものが多いが、レシピさえ確認すればジャンルは問わずある程度は作れる自信があるとも言っていた。 でも彼がそうして手間と時間を掛ける相手は葵ただ一人。都古や七瀬も誘って皆で食べたいなんて無邪気に笑う葵は、遥の愛情の重さにまだちっとも気が付いていないようだ。 遥が冬耶をけしかけつつ、本気でアプローチを始めようとしているなんて微塵も思っていない葵の態度に、人知れず安堵してしまう。遥なら葵の相手として何の不満もないというのに、随分自分勝手な感情だ。 「お兄ちゃんもここ付いてる」 どうやら冬耶の頬にも抹茶が付いていたらしい。席を立とうとすると、葵が手を伸ばしてその部分に触れてくる。こんな触れ合いに心を揺さぶられるようになったのはきっと遥のせいだ。 日中でも薄暗く感じるモダンな内装の店内で良かったと、そんなことを思いながら冬耶はいつも通りの笑顔を装った。 有澄が勤めている店には、冬耶も一度訪れてはいた。葵が初めて双子と出掛けたゴールデンウィークの日のことだ。でもあの時は葵には気付かれぬよう見守る目的で尾行していたから、店の中までは入ったことがない。 葵からの前評判通り、確かにそこは扉を開けるとまるで異世界に迷い込んだかのような不思議な感覚に陥る場所だった。 「藤沢ちゃん、ようこそ。今日は二人も恐そうなの連れてきたんだ」 「こんにちは、早乙女先輩。恐そうってもしかしてお兄ちゃんたちのことですか?」 奥から現れた有澄の言葉に、葵はピンと来ない顔でこちらを見上げてきた。有澄とは特別親しかったわけではないが、顔を合わせれば世間話をするぐらいの仲ではあった。だから本気で恐れているのではなく、学内で一部の生徒が付けた魔王とか閻魔なんていう物騒なあだ名を揶揄しただけだろう。 葵にとっては優しい存在でしかない二人が恐いと表現されるなんてちっとも理解出来ないと言いたげな素振りに、有澄は楽しそうに笑ってみせた。 「これが例の絵本だね」 葵がカバンから絵本を取り出しカウンターに乗せると、有澄は早速それを手に取ってしげしげと観察を始める。 「本当だ、沢山読んだ形跡がある。でもとっても大事にしていたのも分かるよ」 葵は成長するにつれ、一冊の絵本に夢中になる行為が一般的ではないことに気が付き始めた。母親の思い出に縋る姿が痛々しく思えたとはいえ、京介が無理に取り上げようとしたことがあるのも、葵を悲しませたのかもしれない。だから理解を示す有澄の言葉に、泣きそうに唇を噛み締める。

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