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act.8月虹ワルツ<307>

「このシールは剥がしたい?完全に綺麗に剥がすのは無理だろうけど」 絵本のカバーを外した有澄は、本体の裏表紙に貼られているものに気付いて指でその箇所を示してきた。銀色に光る星は、葵が西名家にやってきた頃にはすでに貼られていたもの。 「これ、自分で貼ったのかな。いつからあったのか思い出せないんです」 葵は星を指でなぞりながら、記憶を辿るように目を瞑る。それを遥や有澄と共に見守っていると葵は有澄に対し、“そのままにして欲しい”と依頼した。何か大事な思い出の一部かもしれないと考えたのなら、自然な答えだと思う。 有澄は葵のリクエストを受け、ぐらついている背表紙や、敗れかけたページの修理だけを請け負うと約束してくれた。 絵本を預けて店を出ると、葵は冬耶たちの真ん中に収まって手を繋いでくる。 「早乙女先輩にどんなお礼したらいいかな?好きなもの知ってる?」 二人の顔を交互に見比べながら、葵は絵本が直ったあとのことを相談してきた。確かに世話を焼いてくれた有澄には何かしらの礼をするのが道理だろう。だが、彼の好むものなんて本ぐらいしか浮かばない。 それは遥も同じだったのか、お互い難しい顔を見合わせることになった。 「双子ちゃんに聞いてみたら?従兄弟だし、俺たちより知ってるかもよ」 冬耶がそうして促すと、葵は“たしかに”と頷きはしたがあまり気乗りしないようだった。彼らに相談すれば、有澄に頼み事をした事実を告げるのが自然だ。それが気掛かりらしい。 親しい関係にあるのは間違いないが、まだ過去に触れる話を打ち明けるのは不安なのだろう。もうすでに彼らには話しているのだと知ったら、葵はどう思うだろうか。冬耶には絶大な信頼を向けてくれているというのに、その思いを踏みにじっているようにも思えて、息苦しさを覚えた。 「仲良くなっても、その人の好みを全部知るのって難しいね」 葵はそれ以上話を深掘ろうとはせず、少し違った角度に話題を広げた。どうやら演奏会当日、櫻への差し入れに贈るものを忍と相談しあっていたらしい。結局、本人に尋ねて生花に落ち着いたというが、好みを把握出来ていなかったことが寂しく感じたとも話してくれた。 「でも今回、月島の好みは一つ知ることが出来た。それでいいんじゃない?」 「そうかな?」 「そうだよ。そうやって少しずつ仲良くなっていくものなんだから」 励ます言葉を与えてやると、影が差しそうだった表情が和らぐ。葵が焦る気持ちは分からないでもないが、彼が思っている以上に周囲はきちんと葵を愛してくれている。だから怖がらずにゆっくりと関係を深めていけばいい。 車を停めている駐車場に戻る前に、道沿いにあったコーヒースタンドに立ち寄ることにした。冬耶はアイスコーヒー、遥はカプチーノ、そして葵は甘みの強いメープルラテを選んだ。でも葵にはまだ苦味のほうが強く感じられたらしい。一口飲むなり、シロップを足す姿に笑いが溢れてくる。

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