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act.8月虹ワルツ<308>

「相手のことを知ろうとするだけじゃなくて、葵ちゃんからも好きなもの、苦手なものを伝えてみたら?そうしたらもっと仲良くなれると思うよ」 「苦手なものも?」 店外に並んだハイテーブルの一つを囲むと、遥は少し前に交わした会話を続けた。 葵は元々食事には関心を持たなかった。満足に与えられることのない日々に慣れきって、貪欲になるどころか、求めることをやめたと表現するのが正しいかもしれない。馨がしきりに小さくて愛らしいままで居ることを望んだのも、影響があるのだと思う。 西名家に引き取られた頃は、何を食べても飲んでもあまり表情を動かすことがなかった。遥もその時代を知っている。だからこそ、コーヒーで顔をしかめるところすら、愛しく思えてくるのだ。 「そう、例えば葵ちゃんは苦いコーヒーが苦手。だけどミルクとシロップが入ってれば我慢できるとか、そういう話」 「生徒会で毎回お茶してるから、それはもう皆に知られちゃってるかも」 コーヒーが飲めることを大人っぽいと感じている葵にとっては、隠しておきたい話だったようだ。試験勉強の時は背伸びをして眠気覚ましにコーヒーを飲もうとしていたこともあったが、せいぜい二、三口分減らすのが限界だった。生徒会でもあの調子なら、周囲に葵の好みはバレていると思う。 「じゃあ一人で眠るのが苦手ってことは?」 遥はあくまで自然な流れを装って、核心を突く。途端に俯いた葵の表情はキャップのツバでよく見えない。 「コーヒーとそれは違うよ」 「そう?同じ話だと思うけどな」 顔を上げさせるために遥がツンと頬を突くが、葵は動こうとしない。 夜の暗闇も、孤独の静けさも苦手としている葵。西名家が引き取ってからはしばらく両親が共に眠ってやっていたし、そのうち京介や冬耶がその役目を担うようになった。寮に入ってからもそれは変わらず。 だから葵が一人きりで何夜も過ごしたのはこれが初めてだ。うまく乗り切れるならそれはそれで良かったが、結局葵は限界に達するまで助けを求められずに体調を崩してしまった。これを繰り返させるわけにはいかない。 「寂しくなったらなっちと一緒に寝なって言わなかったっけ?」 「……うん、奈央さんもおいでって言ってくれた」 「じゃあどうして頼らなかったの?」 葵の顔がますます下を向いてしまった。 ウブな後輩をからかって楽しむという名目だけでなく、彼が葵の拠り所になってくれればと思っていたのは本当だ。葵だって奈央の部屋に入り浸ってしまうかも、なんて冗談を口にするぐらいには乗り気だったはず。それがどうしてこうなったのか、本人に確認しておきたかった。 「奈央さんと一緒に寝るのに慣れちゃうかもって思ったら、怖くて」 「怖い?どうして?」 もう一段階深く打ち解けられるのはいいことなはず。それを恐れる理由を尋ねると、葵は冬耶の胸を締め付けるようなことを言ってくる。 「また卒業が辛くなっちゃうから」 シンプルな一言ではあったが、そこには葵が冬耶と遥の卒業でどれほど苦しんだかが込められている。もちろん、葵には冬耶たちを責めるような意図は微塵もないだろう。それでも、葵を置いていかざるを得なかった冬耶にとっては罪悪感を覚えさせられる言葉だ。 遥も同じ気持ちなのだろう。葵へと伸ばしたままの手が、今度は慰めるように優しく頬を撫でてやっている。 「それにね、百井くんっていう一年の子が生徒会の手伝いに来てくれることになったんだ。だから先輩としてもっとしっかりしなくちゃって」 葵はそこでようやく笑顔を浮かべてこちらを見据えてきた。葵なりの前向きな挑戦。そう言われてしまえば、失敗を咎めることなど出来やしない。背中を押してやるのが正解だとすら思えてくる。

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