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act.8月虹ワルツ<310>
* * * * * *
以前この場所を訪れてから、すでに一ヶ月近くが経っていた。建物自体の外観はまるで変わりはないが、主の表情は随分様変わりしたように思う。
「あぁ、奈央さん。よく来たね」
過去訪れた二回ともチケット売り場にちょこんと腰掛けていた館長だが、今日は正門の周りの掃き掃除に勤しんでいた。首から掛けたエプロンはくたびれているけれど、その表情は生き生きとしている。憑き物が落ちたよう、という表現はこんな時に使うのかもしれない。
「こんにちは。すみません、今日も僕一人なんです」
「いやいや、来てくれてありがとう」
箒を動かす手を止め、館長は笑顔を向けてくる。そして一瞬の間を置いて深々と頭を下げてきた。
「本当に、ありがとう」
てっきり幸樹は奈央の名を出さずに動いていたと思い込んでいたが、どうやらその予測は外れたらしい。感謝の意を表されて、奈央は慌てて顔を上げるよう頼み込んだ。しばらく続いた応酬を止めてくれたのは、近くを通った通行人の訝しげな視線だった。
「しかし、あのお兄さんは奈央さんとどういった知り合いなんだい?葵ちゃんの友達だと穂高くんは言っていたが」
いつもの事務室に通され向かい合うように椅子に座ると、館長は改めて幸樹との関係を尋ねてきた。
幸樹がどんな手段でこのプラネタリウムが抱えている問題を解決したのかは分からない。だが、幸樹の風貌が老人の目には随分派手に見えるのは確か。葵の友人と聞いてもにわかには信じ難いのだろう。
「幸ちゃんは僕の同級生なんです。葵くんとは同じ生徒会の先輩と後輩っていう間柄ですね」
「驚いた、まだ高校生なのかい?」
「ええ、ああ見えて」
長身やガタイの良さもそうだが、金銭が絡む問題を処理した事実が幸樹をもっと年上に見せていたようだ。制服を纏っていなければ、彼が酒を飲んでも煙草を吸っても、誰も違和感を覚えないだろうから無理もない。
「老い先短い身ではあるけれど、もう一度本気で頑張ってみようと思ってね」
老朽化した建物自体はどうにもならないが、それにかまけて手入れを怠っていたことを反省したのだという。だから建物の周りの清掃を行なっていたのだと合点がいく。
このプラネタリウムには星空が投写される円形のホール以外に、宇宙への関心や知識を高めるための展示室が設けられている。だがそこはしばらくのあいだ明かりを点けたことがないらしい。ほとんど商品の置かれていないギフトショップのスペースもあるが、布が被さったまま。
そうした館内の設備も少しずつ整えていきたいらしい。
「一週間でようやく外周の掃除が終わりそうなんだが、中はまだ手付かずで」
腰の曲がった老人一人では限界があるだろう。館長の話を受けて、何か手伝えることはないかと自然に申し出ていた。
葵の大切な場所を守りたい。その一心で幸樹に助けを求めはしたけれど、奈央自身が何かを成し遂げたわけではない。だから自分に出来る形で改めて力になりたいと思ったのだ。
初めは当然のように断ってきた館長も、奈央の訴えを聞いて最後には折れてくれた。
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