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act.8月虹ワルツ<311>

「一番急ぎで取り掛かりたい場所はどこでしょう?」 何から手をつけていいのか途方に暮れるほどやるべきことは多い。館長に尋ねると、彼もまた同じ悩みを抱えているのか、髭を蓄えた顎を撫でて唸り出してしまった。 「まずはやっぱり全ての方が訪れるここ、ですかね。施設の中心ですし」 奈央が提案したのはプラネタリウムのメインであるホールだった。年季は入っているが、館長が日々掃除をしているおかげで、一見大きな問題を抱えているようには見えない。けれど、よくよく見るとベルベット地の深紅の座席は埃っぽく、所々にシミが浮かんでいる。 きっとこのホールを埋め尽くす赤い座席が鮮やかな色を取り戻せば、一気にこの場の雰囲気が変わる気がする。 「しかし洗濯するわけにはいかないし、拭いただけで綺麗になるものかね」 座席に直接貼り付けられたクッションは取り外しが出来ない。でも奈央には考えがあった。 「小さい時、家にあったこんな手触りのソファを汚しちゃったことがあるんです。溢したジュースを必死に拭ったんですけどどうにもならなくて」 一人息子の教育に必死だった両親は、奈央の子どもらしい細やかなミスも目くじらを立てて怒る傾向にあった。バレたら確実に叱られる。その焦りで困り果てていた奈央を救ってくれたのが、家政婦の一人、草間だった。 奈央が物心つく前から高山家に仕えていた彼女は、泣きながらソファに縋る奈央を見て“大丈夫”と大きく笑ってくれた。そしてその言葉通り、手際よく掃除用具を揃えてあっという間にソファを元通りにしてしまったのだ。 「その方法を覚えているのかい?」 「……いえ、全く。でも知っている人と連絡をとることなら出来ます」 そう言って携帯を取り出せば、館長は期待した目を向けてきた。 また誰かの手を借りることにはなるが、実行するのが奈央ならば役に立てたと言えるはず。そんなことを考えながら、奈央は草間が高山家を去る前に残していった携帯番号に発信した。 連絡をとりたいとは思っていたが、なかなかきっかけを掴めずにいた。加南子の一言で高山家を去ることになった草間にどんな風に声を掛けたらいいのかも分からなかったというのもある。 もう少しで孫が生まれるのだと言って笑っていた彼女がどうか元気でいてくれるといいのだけれど。不安を抱えながらコール音を聞いていると、それがぷつりと途切れる。 『はいはい、どちら様?』 高山家にいた時よりも明るい声音を聞いた瞬間、無性に涙が出そうになった。 「草間さん、あの」 『……あら!?もしかして坊ちゃん?』 奈央の発したたった一言ですぐに相手が誰かを理解したらしい。彼女にそうして“坊ちゃん”と呼ばれるたびにもう小さな子供じゃないんだから、なんて返していたことを思い出して懐かしくなる。 突然の連絡、それも用件があまりにも突拍子のないものだというのに、草間は奈央が頼ってきたことがよほど嬉しかったのか、今からこちらに来るなんて言い出した。 「いや、やり方だけ教えてもらえればそれで」 『何をおっしゃるんです。食事の用意も、掃除も洗濯も、坊ちゃんのお世話はぜーんぶ私がやってきたんですから』 温室育ちの奈央には何も出来ないと思っているのだろう。実際それはその通りではあるのだけれど、彼女がやってきてしまえば、やはり奈央が役に立てずに終わる気がする。 しかしはっきり断ろうとしたところで、“久しぶりに顔が見たい”なんて言われたらそれも叶わなくなる。たった一ヶ月だというのに、奈央も彼女の溌剌とした笑顔にもう一度会いたかった。

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