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act.8月虹ワルツ<318>

* * * * * * すぐに止むと踏んでいた雨は、次第に強くなっていく。雨音が耳に入ったのか、葵の眉根がきつくひそめられるのに気が付いて、遥はリビングの窓を閉めに向かった。 コーヒースタンドを出たあとは、帰宅する前に近くの美術館に立ち寄った。少し前の時代を生きた絵本作家の原画展が行われているという情報を冬耶が見つけたからだ。 常設スペースのほんの一角を使った小さな展示だったが、葵は随分楽しかったらしい。飾られた原画を見ながらどんな物語のワンシーンかを想像する遊びに熱中し、全てを回り終えるのにはそれなりの時間を要した。 さすがに疲労を感じたのか、帰宅するなり葵はソファでうたた寝を始めてしまった。薬のせいもあるのだろう。無理をさせたのではと心配にもなるが、お土産に買ってやったポストカードを手元に置いたまま寝息を立てる姿を見ると、連れて行ってよかったと思わされる。 「あれ、あーちゃんやっぱり寝ちゃったんだ?」 一度帰宅した後一人で食材の買い出しに出掛けてくれていた冬耶は、リビングに入るなりソファで眠る葵を真っ先に見つける。彼を見送る時には眠くないと言い張っていたはずの弟がすっかり熟睡している様子に、呆れと愛しさが混じった笑顔を浮かべていた。 「ちょっと眠りは浅くなったけど」 「あぁ、そっか。今の時期は辛いよな」 遥が窓の外を見やった動きで、何を言いたいのか察したようだ。冬耶もまた灰色の空を見つめる。 雨も葵にとって苦手なものの一つ。こんな天気の日は幼い頃置き去りにされた記憶が蘇ってしまうらしい。だから元々雨が降ると家の外にも出たがらなかった。 遥が葵と出会った頃は、西名家が葵の好きな色の傘や長靴、レインコートを揃えてやって少しずつ克服させようとしているところだった。まずは庭先で遊ぶことに慣れさせ、その次は曲がり角の向こうの公園まで。そうして西名家が葵を裏切ることなど有り得ないのだと覚えさせ、地道に信頼を積み重ねていた。 今では日常生活に支障が出ない程度に成長できた。それでもやはり苦手意識は強いのだと思う。眠っているあいだにも、雨の音で気分が落ち込んでしまうぐらいには。 「大丈夫、あーちゃん。傍にいるからね」 まるで何かを堪えるように、葵の手は遥が先ほど掛けてやったブランケットをきつく握りしめている。それを見かねて、冬耶は寄り添うようにソファ脇に座り込むと、己の手を重ねて強張りを解してやっていた。 冬耶が買ってきた食材をもとに夕飯の準備を再開させると、彼もまたリビングを漁って何かの作業をし始める。机に広げられたのはチラシと鉛筆。彼が何をしようとしているかはすぐに想像がついた。手持ち無沙汰になるといつも絵を描き始めるのだ。 「ちゃんとした紙に描けば?俺の部屋にあるよ」 「ううん、いい。遊んでるだけだから」 返事をしながら彼は鉛筆を滑らせ始めた。葵のためにと訪れた美術館で、少なからず冬耶も触発されたのかもしれない。あっという間に没頭し始めた横顔は、無邪気な少年のようだ。

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