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act.8月虹ワルツ<319>
彼の芸術的な側面を知っている人間は皆、美大に進学しなかったことを知ると大袈裟なぐらい落胆していた。勿体無いとか、もう絵は描かないのかとか、方々から問われている姿を目にしてきた。その度に彼は、絵は趣味だと笑顔で言い切っていた。だからきちんと学ぶつもりもないし、かといって辞める気もないのだと。
でも本当は悩んでいたことを知っている。冬耶の描いた絵を言い値で買いたいと申し出る人と出会い始めてから、趣味が金を稼ぐための手段にもなり得ることに気が付いたからだ。
結局彼は目的のために着実な方法を選んだけれど、あんな姿を見ると本当にそれで良かったのかと問いたくなる。もちろん彼は芸術以外の才能にも溢れていて、どの道を選んでも成功するのは分かりきっているのだけれど。
そういえば、と遥は思い立つ。二年の夏といえば、そろそろ本格的に進路について考えなければならない時期だ。
「なぁ、葵ちゃんから進路のこと何か聞いてる?もうすぐ三者面談だろ」
今の状況では陽平が保護者として出席出来るかも怪しいが、それはともかくとして、葵が進路についてどう考えているかは気になる。高校に上がってから時折話題には上がるが、葵はいつもまだわからないと言ってはぐらかし続けてきたのだ。
「もうそんな時期だっけ」
「放っておくと色々悩みそうだから、聞いてやったほうがいいと思うよ」
ただでさえ西名家に負担を掛けている状況を心苦しく思ったままなのだ。おまけに自分の出自を正確に把握したばかりでもある。悩むなといっても難しい話だろう。
冬耶は鉛筆を動かす手を止めて一度葵の寝顔を確認した後、こちらに向き直った。
「任せていい?はるちゃん」
西名家の一員がいる場では葵が素直に悩みを吐き出せないと判断したのだろう。確かにそう言った類の話なら、ほどよく部外者である遥以外に適任者はいない。
「じゃあやっぱり今日は葵ちゃんと二人でお泊まりのほうが良かったかな」
「二日間満喫したくせに。俺だって久々にあーちゃん抱っこして寝たい」
冬耶抜きで話す場を作るなら、と冗談を口にすると、彼は途端にむくれてみせた。昨日と一昨日の日中、葵を独占したことには違いないが、熱を出して寝込んでいたのだから遥だって満喫したとは言い難い。何度かキスは交わしたけれど。
「そういえば、一緒に性教育する約束だったっけ。今夜する?」
「……その話生きてたの?」
「もちろん」
冬耶は心底恨めしそうにこちらを睨みつけてきた。彼をからかうために言っているわけじゃない。葵が何の知識も持たぬままでいるのは危険だと、本気で思っている。でないと、周囲にいいようにされてしまう。すでに手遅れな気もするが、見逃すわけにはいかない。
「それも俺に任せる?俺はそれでも構わないけど」
直接肌に触れないというルールを己に課すのは苦行でしかなかったが、全面的に信頼して身を任せてくる様は美味しくもある。翌日恥ずかしそうにそわそわする姿もセットで、堪らなく可愛かった。それを独り占めしていいなら、有り難く受け入れる。
冬耶はまだ寝息を立てている葵に視線を落とし、黙り込んでしまった。教育するという建前があっても、ある意味手を出すと宣言している状態の遥の元に葵を置いて帰るという選択肢は彼にはないはずだ。かといって、加わるとも言えないのだろう。
葵本人に選ばせるというのが、唯一の落とし所だろうか。遥はその場で更に冬耶を追い詰めることはせず、キッチンへと身を引っ込めた。
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