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act.8月虹ワルツ<320>

それから小一時間ほど経過した頃、ようやく葵は目を覚ました。寝ぼけ眼で欠伸を繰り返しながら冬耶の腕の中に潜り込む様子を見ると、彼はまだまだ寝られてしまうのではないかと思えてくる。 冬耶に縋りつきながらも、葵は遥を見つけて手を伸ばしてくる。一緒に居る時は常に二人の間に収まりたがるのだ。だから遥もキッチンを離れ、誘われるままソファに向かってやる。 「怖い夢見なかった?」 「……明日の夢、見た」 雨音のせいで寝苦しそうにしていたことを気遣えば、予期していなかった言葉が返ってきた。過去ではなく、未来を夢に見るとは。それも葵にとっては楽しみにしている予定のはず。 だが、二人の真ん中に座り直させた葵から夢の内容を聞くと、合点がいった。夢の中で忍の名を呼べずに困る自分が登場したらしい。 「親戚のフリをするんなら“会長さん”じゃおかしいし、“北条さん”もダメだよね。全然気が付かなかった」 忍からは明日葵を連れ出すことや、そのために服装を整えさせることについては伺いを立てられていた。忍を後押しした自覚はあるし、葵が前向きである以上止める理由はない。けれど、弟と同じ名を持つ忍の問題がネックとなってしまった。 「どうしたらいいかな」 遥と冬耶、二人の手を握りながら助言を求めてくる。葵自身、早く乗り越えたいと願っていることではあるが、さすがに明日いきなり克服できるとは到底思えない。かといって、今更これを理由に約束を反故にもしたくないだろう。 「親戚ってことなら、冬耶呼ぶみたいに“お兄ちゃん”でいいんじゃない?」 「でも聖くんと爽くんは早乙女先輩のこと“有澄”って呼び捨てにしてたよ?」 身近な例が葵を戸惑わせる要因の一つになっていたらしい。随分親しそうな彼らの関係を考えれば、年下の双子が有澄を呼び捨てにし、反対に有澄は彼らをちゃん付けで呼んでいても、違和感はない。 「家庭によるよ。従兄弟相手に“お兄ちゃん”でも呼び捨てでもどっちもおかしくはないと思うけど」 「そうかな?お兄ちゃんもそう思う?」 「うん、全然おかしくないよ」 冬耶からも後押しされ、葵は事前にメッセージを送って忍本人に確認を取ることを選んだ。 明日は親戚らしくお兄ちゃんと呼びたい、そう言われて彼はどんな顔をするだろう。わずかでも名で呼ばれることを期待していたとしたら可哀想にも思うが、もしそうだとしても忍はそんな感情を微塵も滲ませないだろう。憐れまれることこそ、彼を傷つける気もした。 冬耶や遥に伝言を頼むことなく自ら忍に伝えた行動だけでも、彼との関係が深まっていることを感じる。いつかはきっと弟への罪の意識から解放され、何の気兼ねもなく忍の名を呼べる日が来てくれると信じたい。 でも葵にはもう一つ、気掛かりがあったらしい。 まるで自分の第二の家とばかりに相良家の勝手を知っている冬耶が湯を溜めるためにバスルームに向かうと、葵はその姿がリビングから消えるなり、こっそり尋ねてくる。

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