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act.8月虹ワルツ<321>

「会長さんのことを“お兄ちゃん”って呼んだら、嫌だって思わないかな?」 「嫌に思うって誰が?」 声を取り戻しても、葵が西名家の両親を親となかなか呼べなかった話は知っている。実の子ではない自分が彼らを父や母と呼んだら、冬耶や京介が嫌な思いをするのではないかと気にしていたらしい。冬耶を兄と呼ぶのも、京介に遠慮していた時期があったとも聞いた。 忍は確か弟がいたはずだから、今回もそういった類の悩みだろうか。 「だって僕のお兄ちゃんは冬耶くんだけだから。他にお兄ちゃん作ったら悲しませちゃうかなって」 遥の予想は外れ、葵は忍の家族ではなく冬耶を思い遣る言葉を口にした。 真っ先に浮かんだのは椿の存在。葵にはまだ何も告げていないはずなのに、まるで冬耶の悩み事を汲み取るような発言だった。気にすることはないと無難な答えを授けてやったけれど、葵の中では冬耶が何を思うのかがやはり心配らしい。 冬耶が兄という立場にしがみついている現状を感覚的に察知しているのかもしれない。葵自身もなぜ気になるのかの言語化が難しいようだから、理解が出来ているとは言い難いのだろうが。 「大丈夫。一日限りの“お兄ちゃん”なんだから。それより葵ちゃん、“冬耶くん”って呼んでたの?」 「うん、お隣さんだった頃。宮岡先生とお喋りして思い出したんだ」 遥が出会った頃にはすでに冬耶を兄と慕っていたから、知らない話だった。冬耶が葵に純粋な恋心だけを向けていた時期と重なるはずだ。 「だからね、このあいだ久しぶりに呼んでみたの。冬耶くんって」 「冬耶はどんな反応だった?」 葵に対しての一人称ですら“お兄ちゃん”を多用する彼のことだ。兄であることを忘れないように強く自制しているのだと思う。それがいきなり名前を呼ばれたら動揺するに違いない。 「うーんとね、驚いてた、かな。久しぶりだから照れちゃうって言ってた」 「へぇ、そっか。なるほどな」 焦る姿が目に浮かぶ。葵は言葉通りに受け取っているようだが、兄の顔がぐらいついたのだろう。それにしても随分面白い情報が聞けた。 「冬耶が戻ってきたら呼んでみてよ」 「でも呼ぶ時はお兄ちゃんに確認してって言われてるんだ。いきなりだとびっくりするからって」 早速芽生えた悪戯心は、兄の言いつけを守ろうとする葵に阻まれてしまう。でも呼びたいと乞うやりとりだけでも十分に興味深い。 「じゃあ確認して?」 頼み方を変えると、葵はあっさりと了承してきた。冬耶を本気で困らせるのだと全く理解していないようだ。 葵は冬耶がリビングに戻ってくるなり、すぐに遥の頼み事を口にした。でも遥の願いは叶わなかった。 勘のいい冬耶は何があったかを瞬時に察知して、こちらに一度鋭い視線を飛ばしたあと、葵を抱き締めながら“二人の時だけ”なんて約束事を追加してみせたのだ。 「あーちゃん使ってまで俺のこと弄ぶなよ」 「一番効果的かもしれないと思って」 葵の目を盗んで冬耶はクレームを入れてくるが、反省はしていない。 兄である冬耶を気遣う葵と、兄の顔を守りたがる冬耶。そんな二人を放っておけば、何事も起きずに終わってしまうだろうから。余計なお世話と言われればそれまでだが、遥にとっては冬耶が動く気になるかどうかは大きな問題なのだ。 「で、風呂はどうする?三人で入るか、俺に譲るか、それとも独り占めしたいのか」 こうなってはどの選択肢も難しい。そう言いたげに冬耶はうなだれてしまった。

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