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act.8月虹ワルツ<325>

「今なら呼んでもいい?」 幼い日の出来事は葵にとって恐ろしいものばかりではない。隣人として出会った彼は、葵に青空の描き方を教えてくれた。彼との思い出に浸るのは怖いどころか、葵の心を温かくしてくれる。 それに明日は忍を“兄”と呼ぶ。そのあいだ冬耶が兄ではなくなるわけではないけれど、当時の葵を導いてくれた“冬耶くん”に戻るのだと思えば、罪悪感を覚えずに済みそうだった。 「二人の時だけって約束じゃなかった?」 「でも遥さん、寝てるよ?」 「いーや、絶対起きてる。はるちゃんがあんなに早く寝るわけないよ」 冬耶があまりにはっきりと断言するから、振り返って確認してみようとした時だった。背後からするりと二本の腕が回ってくる。もちろん犯人は遥だ。 「ほら、な」 「本当だ、起きてたんだ」 冬耶は狸寝入りをしていた親友に呆れたような顔をするけれど、先に眠ったと思っていた遥が起きていてくれて嬉しい。 「まだおやすみのキスしてなかったから」 そう言って頬に落とされる唇も、葵を喜ばせる。冬耶もその流れに乗じて、額やこめかみに口付けてくれた。 ほんの二ヶ月前まで二人に囲まれてこんなじゃれあいをするのが日常だったのに、随分昔のようにも感じてしまう。今この瞬間も、遥がフランスに帰ってしまえばきっとまた遠い過去になってしまうのだろう。 どこにも行かないでほしい。ずっと傍にいてほしい。そんな言葉を何度飲み込んだか分からない。 「明日月島の演奏会が終わったら迎えに行くよ。レンタカーでもいい?」 切なさに引きずられそうになる間もなく、遥は葵を背後から抱き締めながら明日の予定を告げてくる。また遥の運転する車に乗れるのは楽しみだ。いや、正確にはハンドルを握る遥の姿をもう一度見られるのが葵の心を弾ませる。 でも遥が続けた言葉でまた息が苦しくなる。 「二人でゆっくり話そう」 きっと少し前なら素直に喜べた誘いだ。もちろん、今だって嬉しくないわけではない。でもそれがお別れの合図だと予想できるから手放しで頷けないのだ。 離れているあいだのこと、そしてこれからのこと。葵がきちんと整理をつけられるように遥は戻ってきてくれたのだと思う。今日で帰国から一週間。そろそろフランスに戻ると言われてもおかしくはない。 このまま時間が止まってしまえばいいのに。 喉元まで出かかった我儘を葵は無理に押さえ込んで、冬耶の胸に逃げ込んだ。 「あれ、やっぱりレンタカーじゃカッコ悪い?」 「お兄ちゃんの赤いのが一番カッコいいよな」 優しい声と共に、大きさの違う手が葵を甘やかしてくる。葵がどうして何も言えないのかを、きっと二人は分かっていて触れずにいてくれるのだろう。 「眠くなっちゃった?」 冬耶に問われ、葵は黙って頷く。朝が来ない欲しいなんて考えていたのに、思わず嘘をついてしまった。二人はやはりその嘘を追及することなく、本当に眠気が訪れるまでずっとあやし続けてくれた。

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