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act.8月虹ワルツ<331>
「お前の事を突っ込んで聞いてきた場合は俺が適当に答えるから、心配しなくていい」
「はい。あ、でもさっきみたいに中学に上がったばかりって紹介されるのはちょっと嫌かも」
「仕方ないだろう?近い年頃の親戚は皆顔も名も知られている者ばかりなんだから。それに、疑われないお前だって問題だろう」
葵が心底心配してくれている様子の忍を安心させるために少し前の会話を明るく引き出せば、いつもの彼らしい意地悪な答えが返ってきた。
忍曰く人工的なウィッグの毛は触り心地が悪いらしい。かといって地毛を引っ張り出して触れることは出来ない。忍の手は仕方なく髪を諦めて、柔らかな素肌へと移動していく。
「開演までまだ随分時間があるんですね」
忍に頬を摘ままれたり、突かれたりするのを甘受しながら、葵は受付で渡された立派な造りのパンフレットを開いてその開演時間を確かめた。
「演奏会はもちろん月島家の奏でる音楽を楽しむ、という目的があるが、名家の交流の場として提供されている。だからこうして余裕のあるタイムテーブルが組まれているわけだ」
「へぇ、じゃあ音楽も聴けて、友達も増えて、良いことがたくさんですね」
大人の事情が複雑に絡んでいるのだろうことは葵だって理解していたが、それでも櫻が出演する会を嫌な風に表現することは避けたかったし、何より本当に良いものだと思ったからそう言った。
忍も一瞬面喰い、そして笑ったけれど、葵の意見に賛成してくれた。
それから忍はほとんどクラシック音楽に慣れていない葵のために、櫻が演奏する曲をはじめとして今日披露される楽曲についてパンフレットを見ながら色々と解説をしてくれた。予備知識があったほうがより楽しめるからと言われて、葵も喜んでその講釈を受けた。
しかしそれもほんの短い間。
葵たちのいるエントランスが急にシンと静まり返り、そして先ほどまでとは違うざわめきで満たされ始める。
「葵、主催者のお出ましだ」
忍に倣って葵もベンチから腰を上げれば、確かにエントランスホールには今まで見かけなかった集団が現れている。彼らは皆一様に黒のタキシードやドレスに身を包み、胸元に白い薔薇を咲かせていた。
「あれ、でも櫻先輩がいない」
「あいつは舞台にしか出てこないよ。今頃控室にでもいるだろう。紅茶に差し入れのチョコレートでも食べながら」
葵は櫻が一人だけ現れない状況に心当たりがあって動揺を隠せそうになかったが、忍が語尾に付け足した生徒会室でのいつもの様子のおかげでかろうじて笑顔を作ることができた。
「それから葵。この場では櫻さんと呼べと言っているだろう。先輩だなんて呼んだらややこしいことになる」
「あ、はい。気を付けます」
「それだけ守って、あとは気楽に構えていろ。俺に全て任せて」
ノンフレームの眼鏡を掛け直して手を差し伸べてくる忍はやはり、見知らぬ人ばかりの空間で何より心強い。
「行くぞ、葵」
まるでこれから戦場にでも赴くかのような口ぶりに葵は少し笑いそうになってしまったが、彼の手に自分の手を重ねて大きく頷いた。
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