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act.8月虹ワルツ<332>

ばらけていく一団に近づいて行けば、あちらから葵たちに声が掛けられた。年の頃なら四十過ぎの男女、おそらく夫婦だろう。 男性のほうは眉間に気難しそうな皺が刻まれていたけれど、立ち居振る舞いはあくまで穏やかな紳士然としている。そしてその仕草がぴったりと当てはまるような顔立ち。 彼の腕に自らの腕を絡めている女性は派手さこそないものの、上品で優しそうな雰囲気を携えている。華美に飾りつけしている一団の他の女性たちとは違い、小粒のパールが連なったピンだけで栗色の髪を留めていて、その控えめさが彼女の性格を表しているように思えた。 “忍くん”と忍のことを親しげに呼んで、彼も二人の事をおじ様、おば様と呼んだから、葵はなんとなく彼らが櫻の両親なのではないかと感じた。今までのようにお決まりの挨拶を交わしてから、二人の視線はやっと隣にいる葵へと移された。 「もしかしてその子が噂の臣くんかい?やっとお目にかかれたね」 「まぁ、ご挨拶が遅れてごめんなさいね。嬉しいわ、臣くんとお会いできて」 揃ってにこりと微笑まれてしまうと、葵は何と反応していいものか困る。 今日何度“オミ”と間違われたか分からない。その度に忍は葵を遠い親戚だと念押しして紹介してくれるのだ。臣とは忍の二つ下の弟のこと。忍が言うにはこういった場にはほとんど顔を出したがらないため謎めいた存在として扱われているのだそうだ。 葵が臣でないと知ると、二人も案の定残念な顔をしたが、すぐにそれを取り払って失礼を詫びてくれた。葵としては身分を偽って参加させてもらっているのだから、むしろこうして謝られるたびに心苦しくなってしまう。 「そう、ではこういう会には初めて来るんだね。緊張せず、気ままに楽しんでくれ。私たちもそれが一番嬉しいからね」 「あ、はい。そうさせていただきます」 葵が生でプロの演奏を聴く機会に恵まれなかったと知ると、そんな優しい言葉を掛けてもらえる。余計な事は口にしないように、と最低限の返事しかしなかったが、主催者側の人間から言われてやっと葵は場違いな居た堪れなさを拭うことができた。 「そうだ。良かったら忍くんと一緒に今度うちにも遊びにいらして。北条さんのお家なら、ピアノは少し触っていらっしゃるのかしら?ぜひ忍くんとの連弾でも聴かせていただきたいわ」 「え、えっとピアノ、は……」 「おば様に楽しんで頂ける程の腕前じゃありませんよ、俺たちは」 ピアノなんて全く弾けない葵は馬鹿正直に戸惑ってしまったが、約束通り、忍が葵の肩を抱いてフォローをしてくれた。きっとこうしたやりとりも挨拶のようなもので、適当にかわさなくてはならないものなのだと思う。 葵もなんとか忍を真似てにこりと笑ってみた。それを見て、あちらは一通りの会話は終了とみなしたのだろう。夫婦は連れだって葵たちの前から立ち去ろうとした。 だが、それを完全に見送る前に、二人と葵たちの間にタキシード姿の若い男の子がやってくる。 「ねぇ、やっぱり兄さん来ないって。来賓への挨拶はしないとってちゃんと説得したんだけど。ごめん、父さん」 彼は顔見知りなのか、忍に向かって軽く会釈だけすると、男の袖を掴んで困ったようにそう訴えた。彼らの息子であることは間違いないだろう。ということは、兄さんとは櫻のことなのかもしれないと思い、悪いとは分かりつつもつい聞き耳を立ててしまう。

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