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act.8月虹ワルツ<333>

「まさか、また土壇場で演奏しないなんてごねるんじゃないだろうな。あいつの演奏目当てでいらして下さった方もいるんだ。ちゃんと話はついていると、お前は今朝確かにそう言ったな?」 「え、えぇ、演奏はするから、と。ごめんなさい、貴方。でもどうか怒らないであげて」 周囲を気にして相当声量を絞っているようだが、かろうじてそんな会話をしていることが葵には分かった。 男性の声音はさっきまでとは全く異なっている。そして眉間にもあの皺が浮かんでいて、相当に気分を害していることが読み取れた。女性のほうもさっきまでの穏やかな空気は消え、ただ夫の怒りを鎮めようとおどおどしている。 でも葵が一番気になったのは、息子らしき男の子が彼らのやりとりを見ながら心配そうな表情を浮かべているものの、一度愉快そうに口元を歪めたことだった。 「葵、おいで」 一応顔は彼らを正面から見つめないよう背けていたものの、葵が何を聞いたのか、何を見たのか、忍に気付かれたのだろう。また優しく肩を抱かれてその場から離れるよう誘導された。 だが、先ほどまで座っていたベンチへと向かう道すがら、あの黒い衣装の一員と思われる人たちにことごとく捕まってしまった。 あの夫婦は忍たちへあくまで友好的な会話しか口にしなかったから、葵はそこでようやく忍が念押ししたことを実感することが出来た。すなわち、月島家の人間は癖がある、だから嫌な思いをするかもしれない、と。 葵が着ている服の持ち主は忍。当然この場にふさわしい格好のはずだというのに、立ち居振る舞いで違和感を覚えたのか、彼らはいやに葵の育ちを確かめたがった。しかもストレートに尋ねるのではなく、どの作曲家が好きなのかとか、楽器は何を嗜んでいるのかとか、そう言った今日の演奏会の話題として遠くない質問を選んでくるのだ。 覚悟はしていたものの、答えられない質問ばかりに動揺させられ、彼らからかばうようにうまく会話を繋げてくれる忍に申し訳なくて、葵はひどく落ち込んでしまった。 本音が透けた厭らしい笑顔に微笑み返すことすらできなくなって、葵はただ忍と繋いだ手を見下ろしていた。 それに、葵は自分のことだけで傷ついたわけではない。 忍が櫻の友人だと知っているはずの彼らは、櫻への悪口を平気で口にするのだ。葵に対する遠回しな厭味ではない。それは明らかに身内だからと許される範囲のものでもなかった。 その話の中で葵は櫻と、そして月島家のことを少し知ることが出来た。 月島家が経営し、一族の皆が通っている音楽学校。そこへは入学せず、桐宮に幼稚舎から今まで通い続けている櫻は一家の中ではかなり特殊な存在であること。 皆はその学校で毎日それぞれに課された楽器を血の滲むような思いで習得し、腕を磨いてきているのに、櫻はそれをしていない。そのくせ、今回の演奏会で当主から直々に特別な曲の演奏を任されているから、親類一同納得がいっていないということ。 そして月島家を支援してくれる家々が集まってくれるこの場に挨拶をしにも来ない櫻は、我儘で礼儀知らずな問題児とみなされていること。 その話を初対面の葵にも聞かせるのだ。おそらくこの場にいるどの家の人間にも櫻をそうした子として話して印象づけているのだろう。 嫉妬と侮蔑。その感情にまみれたこの空間に、平気な顔をして出てこられる人間が居たら教えてほしい。きっと出てきたらもっと酷い事を言い、醜い視線を浴びせるつもりだろうに。 葵は今一人で控室にいるはずの櫻を想って、ひたすら唇を噛みしめることしかできなかった。

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