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act.8月虹ワルツ<334>

櫻をかばうことは余計に彼の立場を悪くすると分かっているのか、彼らの悪口に乗らずとも否定はせず聞き流している忍を見て、葵はまた彼に対する憧れを強めた。本当に自分とは違い忍は大人だと、そう思った。 やっとベンチに辿り着けたときには葵はもうすっかり疲れ切っていた。それを分かっている忍も、人目を気にせず寄り添うことを許してくれる。 「すまないな。俺の予想が甘かった」 頬に触れてくる忍に謝られて葵は首を横に振ったが、もっと楽に櫻の演奏を聴けると思っていたから予想外であるのは正直な気持ちだった。 「櫻が最初来るのを拒んだのは、こういう理由だ。後悔しただろう?来るんじゃなかったと」 「いえ、そうは思わなかったですけど……僕が来ても、良かったのかなって。色々聞いてしまいましたし」 「ダメだったら招待状を寄越さないよ。櫻だって純粋に演奏だけ聞いてほしかっただろうが、そうもいかない。許してやってくれ。これはあいつのせいじゃない」 許すも何も、と葵はまた首を振る。パサついた黒髪が頬に当たって頬に痛みを覚えるほど。 櫻が悪いわけではないことぐらいちゃんと分かっている。それに櫻を悪く言った人たちを部外者の葵が憎むべきだとも思えない。 月島家の人間として生まれた宿命を背負って、選択肢など提示されずにただ歩んできた人たちなのだ。どれほど努力を重ねても自分ではなく、才能を持って生まれた若い櫻に大切な曲が任されると分かれば嫉妬の一つや二つ抱くのも自然だろう。 そういったしがらみに捕らわれずに生きてきた葵が、そして櫻と個人的に付き合いがあり、彼を好きに思う葵が、軽々しく踏み込んで感情的になってはいけない世界なのだ。 そう思ったら葵は今日ここに来ると決めてからずっと胸につかえていたモノを吐き出してしまわねばならない気がしてきた。不本意とはいえ、月島家と櫻の問題についておかしな足の踏み入れ方をしてしまった状態なのだ。 「多分許してもらわなくちゃならないのは、僕のほうです」 「葵が?なぜ?」 ダークグレーの瞳を眼鏡の奥に光らせて、忍は俯きがちな葵の顔を覗き込んできた。 「これで他には聞こえない。遠慮なく話せ、葵」 葵が口ごもる理由を周囲に人が居るからと判断した忍は、肩を抱いて葵の口元まで耳を寄せてくれた。この密着加減が気恥ずかしくて話しにくいが、確かに他に聞かれたくはない。 葵は内緒話をするように忍の耳を己の手で隠してそっと話し始めた。 櫻と二人でゴールデンウィークに出掛けた日の事。あとを付け回してきたサングラスの男から一方的に櫻の出生、家庭環境について情報を吹き込まれた。 真っ赤な嘘ならばとんでもない侮辱になりうるその内容を、葵は出来る限り聞いた通りに口にしていく。 本当は自分の胸の内だけに留めておかねばならないと葵は思う。でももしもあの話が巧妙な嘘ならば、それを半信半疑でいるまま櫻の演奏を聴くのはとても失礼な気がしたのだ。櫻が家の事情を知られてもいいと思ってまで招待してくれたのだから、尚更だ。 櫻の親友であり、家同士でも親しくしている忍ならば葵の聞いた話を真実か、嘘かの判断だけでも出来るはずだ。嘘だったならば葵はあの男の話を全て頭から消すつもりだ。本当なら、勝手に知ってしまったことを櫻に詫びたいと思う。 「そう、か」 全てを話し終えると、忍は近すぎた葵との距離をほんの少し元に戻した。 「お前はその話を知っていても、あんな風に喜んで来てくれたんだな。ありがとう」 「え、あの、それじゃあ……」 「葵がその男から聞いた話は全て本当のことだよ」 どこかで否定してほしかった葵は、忍の言葉に対しどう反応していいのか分からなかった。

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