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act.8月虹ワルツ<335>

「最初に挨拶をした月島家のあの夫婦が櫻の両親。でもおばさんとは血が繋がっていない。櫻はおじさんの愛人の子。そして最後に顔を出した奴がいただろう?あれは半分血の繋がったすぐ下の弟、律だ」 半分血の繋がった、そのフレーズが葵の忌まわしい記憶を呼び覚ましかけたけれど、それを律という名の少年の印象が打ち消した。 月島家の人間からは櫻の悪口だけでなく、ひたすら律という子が出来たいい子だという話を聞かされていた。皆そのあと必ず、律のピアノの腕は櫻には到底敵わない、と哀れそうに付け足したのだけれど。 「おばさんが櫻の母親を刺した、というのはひた隠しにされているが、櫻の生まれについては周知の事実だ。おじさんの子じゃなく本当は祖父の子かも、という噂もな。気にしなくていい。櫻もそれが葵の耳に入るのを覚悟で誘ったのだから」 「でも、嫌な気持ちにさせてしまわないでしょうか。一か月近く、僕は知っているのに黙ったままでいたから」 大丈夫だと言われても、気にせずにはいられなかった。櫻は葵が何も知らないと思って、前の苗字まで教えてくれたのだ。覗きたくて覗いたわけではないが、やはりどうしても罪悪感が芽生えてしまう。 「……葵が櫻の立場なら、嫌だと思うか?」 少し忍の声のトーンが変わった。葵を見つめる瞳もどこか憂いを秘め始めている。 「身近な人間が自分の過去を人から聞いて知ったとする。それでも葵とはそれまでと変わらず何も知らないフリをして付き合っていると分かったら。葵は嫌か?どう思う?」 忍の質問にすぐには答えられなかった。 胸の奥に仕舞っている自分の過去。西名家以外でそれを知っているのは遥と都古だけ。 大切な人たちには自分のことを何だって知った上で好きだと言ってもらいたい。そんな願いはあるものの、知られた後のことを思うと怖くて仕方ない。だから葵は踏み出せずにいた。 少しずつ、本当に少しずつだが自分のことを周りの人たちに話せるようになった。まだ到底過去の話が出来る心境には至っていないが、いつか話せたらいいと思う。 でももし仮に彼らが葵の全てを知っていたとしたら自分はどう思うのだろうと、葵は忍の問いを真剣に考えてみた。嫌かと言われると、そうではない。興味半分で覗き見るような人たちでないと分かっているからだ。 そして、それまでと変わらずに付き合い続けてくれるとしたら、嫌というよりホッとするだろうと思う。葵が踏み出せずにいるのは、自分の過去を知った周囲が離れていくことを恐れているからだ。 「知らないフリをしているのが、僕のことを気遣ってくれているという理由なら。変わらずに一緒に居たいと思ってもらえたのなら。きっと、うれしいと思います。うまく言えないですけど」 櫻に自分自身の生い立ちを重ねて考えながら、葵は慎重に返事をした。すると忍は一度大きく息をついて、そしてまた体を抱き寄せてくれる。 「そうか。それなら櫻もそう思うに違いない。安心しろ、葵」 忍の声は今まで以上に優しい。だから葵は櫻の事を気に掛ける自分を励ますための単なる例え話ではなかったような気がしてしまう。でもそれに何の意味があったのかは分からない。 それから開演まではほんの短い時間しか残っていなかったけれど、ぎりぎりまで忍と二人、ベンチに並んで座っていた。 周囲から人はほとんど居なくなっていたが念を入れて、パンフレットを覗き見る仕草で一度忍に軽く口づけられた。その時ひときわ強く香ったフレグランスの甘さに、葵はなぜか少し泣きそうになった。

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