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act.8月虹ワルツ<336>
* * * * * *
エントランスホールから一番遠い控室。まるで月島家を汚すウイルスかのような扱いで隔離されるのにも慣れたものだ。この扱いを悲観するどころか、喧騒とは程遠い環境を満喫できて有難いとさえ思う。
櫻は一人紅茶を傾けながら、友人からのメッセージを見返した。
“葵を連れて行く、喜べ”
文面でも傲慢な口調に思わず笑ってしまう。これを受け取ったのは今から一時間以上前。会場入りをして、衣装や楽器のチェックをするのにバタついていてようやくこうして携帯を確認することが出来たのだ。
今頃彼らはとっくにこの会場に到着し、デートを楽しんでいることだろう。忍は葵に自分のお下がりを着せると言っていたが、一体どんな仕上がりになっているのか。ウィッグを被り、眼鏡までした葵をステージから探すのが待ち遠しい。
あれほど嫌だった親族揃いのタキシードにもようやく腕を通す気になる。
「今日を越えれば、しばらくは安泰か」
月島家という閉ざされた空間の中で、鬱憤を晴らす存在として自分はどこまでも悪役として生きなければならない。そういう役目を担わされたのだと、櫻は幼いうちに理解してしまった。
だから彼らの攻撃に対し、怯む姿を見せたことはない。苛めても苛めても足りないぐらいの子供になってやった。
高飛車で我儘、可愛げの欠片もない。与えられた楽器は戸惑うことを知らずに美しく弾きこなしてみせる。音楽ばかりを嗜んで学業がおろそかになりがちな彼らへの当てつけとして、勉強も文句のつけようがないほどの成績を維持し続ける。
ハーフで顔だけは良かった母親の血を色濃く引いてしまった櫻は、その容姿を憎むより武器にしたほうがよっぽど賢いということも覚えた。
音楽の才能には長けているし金もあるが、割合地味な顔立ちの血筋はどうにもならない。その一族の中で櫻の日本人離れした美貌は何よりも目立つ。どれほど豪奢に着飾っても、櫻の生まれ持っての華やかさには誰も敵わないのだ。彼らはさぞかし悔しいことだろう。
今日のように同じ服装で統一すればそれが余計に目立つ。でもさすがに月島家の威信にかけて、櫻一人に酷い衣装を着させるわけにもいかない。
「ボロキレ着せられたって負ける気しないけどね」
用意されたタキシードを身に纏うために、櫻は今着ているカーディガンを脱ぎながら自分ひとりがボロを着せられて舞台に立つところを想像し、鼻で笑った。
櫻がシャツのボタンに手をかけている途中で静かだった控室にノックの音が響く。足音もさせずに忍び寄ってきた奴の正体が櫻にはすぐに想像がついて、思わず舌打ちをしてしまった。
でも立て篭もられたら困るという理由で鍵の付いていないこの部屋では、来客を拒む手立てがない。返事をする間もなく勝手に扉を開けて入ってきたのは、予想通り律だった。
「これ、兄さん宛だって」
顔を出すなり彼は腕に抱えていた花束を差し出してきた。
実母が何人ものパトロンの世話になって生活していたからか、息子である櫻もそうした誘いを受け入れると勘違いしている輩が大勢いる。年齢が上がれば上がるほどそれは顕著になり、男女問わず、邪な思いを込めて擦り寄ってくるのだ。だからこういった機会には少しでも櫻の気を引こうと、嫌になるぐらい贈り物が届けられる。
これもそういった類のものだろうと拒絶しようと思ったが、花束に刺さったカードに書かれた文字に見覚えがあり、思わず頬が緩む。
“櫻さん”
送り主は書かれていないが、丸みを帯びた文字は葵のもの。青い薔薇と白のかすみ草のコントラストが可愛らしい印象を与える小ぶりな花束。生花を貰ったら嬉しいと伝えたから選んでくれたのだろう。
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