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act.8月虹ワルツ<338>
「遠縁なんでしょ。無駄話はいいから出てけ。着替える」
「いいじゃん、着替えぐらいすれば。兄弟なんだし恥ずかしがることないのに」
「出番、お前は午前にもあるよね。こんなとこで油売ってる場合じゃない」
「あれ、俺の出番把握してくれてたんだ。ちゃんと聴いててね、兄さん」
そろそろ律と同じ部屋に居るのが鬱陶しくなって邪険に扱おうとしたのだが、にこやかに笑うだけでテーブルの上から動く気配がない。
「一人で着替えられないなら手伝おうか?」
櫻が何を一番嫌がるかを分かっていて、こうして体に触れてこようともする。中途半端にボタンの外れたシャツを掴もうとする手を振り払って律との距離を離すと、彼は楽しそうに口角を上げた。
「久しぶりに見せてよ。俺が付けた痕」
背を向けると、彼は布の下に隠された火傷の痕をなぞるように指を這わせてきた。嫌悪感で鳥肌が立つけれど、ここでムキに言い返すほど律を楽しませることになる。だからもう一度彼の手を払って、今度こそ触れられない距離を確保した。
「本当に忍くんと一緒にいる子に心当たりないの?」
「しつこいな」
櫻が睨みつければ律は一度は大人しく口を噤んだものの、まだ追及するのを諦めたくはないらしい。
「だって、いくら忍くんの親戚って言ったって、兄さんが知らない人呼ぶとは思えないもん。忍くんの恋人じゃなくて兄さんの恋人だったりするんじゃない?」
残念ながらまだ律の予想通りの関係には至っていないが、読みは悪くない。これだから律は油断出来ない厄介な相手なのだ。
「桐宮は男同士のカップルが多いって聞くし、兄さんにもそういう趣味あったっておかしくは思わないよ」
兄の弱みを握った、とばかりに律は饒舌に語り続ける。
生憎櫻は男の恋人がいるなんて話を流されたところで別に痛くも痒くもない。この顔のせいで昔から女よりも男にモテているのは周知のことで、誰も驚きはしないだろう。
厭われる理由が一つ増えることぐらい構いやしない。それに男が恋愛対象になると知ったら、むしろ喜ぶ輩が多そうですらある。しかし櫻が良くても、今日この場にいる葵を巻き込むことはあまりに可哀想だ。
一族から可愛がられている律が神妙な顔をして兄の恋人が来ている、なんて打ち明ければ瞬く間に噂は会場全体に広がる。そして気丈な櫻ではなく、新参者の葵を皆は苛めたがるだろう。
「僕の恋人なんて言いふらしたら忍はブチ切れると思うけど、その覚悟は出来てる?」
「……てことは、本当に忍くんの相手なの?」
挑発に真正面から乗らずに冷静に問いただせば、律は途端に勢いを失った。忍が葵を特別に可愛がっている態度で、その可能性も捨てきれていなかったらしい。
「忍の片思いだけどね。今大事な時期らしいから、変な絡み方したらどうなるか知らないよ」
その場凌ぎとはいえ、あの二人を恋人同士と認識されるのは癪だ。それに恋人であることを前提として接触されてもそれはそれでややこしい事態を生むだろう。だから櫻はあくまで“遠縁”という嘘をつき続けても、それ以外は真実を伝える。
万が一この話を律が漏らしたとて、会場には北条家を敵に回したがる馬鹿はいないはずだ。
「忍くんが片思いって想像つかないんだけど。あんなに良い男なのに」
北条家との関係を抜きにしても、律は忍に妙に懐いているところがある。だから忍を持ち上げるような発言をするのも本心からだろう。
「僕はデートの機会を提供しただけ。それを邪魔したいんなら勝手にすればいいよ」
「ちょっと待ってよ、邪魔したいわけじゃないってば。ただ俺は兄さんの相手じゃないかって思ったから聞いただけで」
忍を怒らせることだけは避けたいらしい。律は櫻から告げ口されることを恐れて、慌てて釈明の言葉を重ねた。こういうところは悪役になりきれない幼さを感じさせる。
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