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act.8月虹ワルツ<339>

「じゃあいい加減出てってくれる?」 促すとようやく律はテーブルから飛び降り、部屋を後にする兆しをみせてくれた。でもドアノブに手を掛けながらもう一度こちらを振り返ってくる。 「でも兄さん、好きな子はいるよね?金髪の可愛い子」 彼の言葉で思いつくのは葵の素の姿。律には桐宮の知り合いはいないはずだが、櫻の様子を探るためにわざわざ誰かと繋がりを持った可能性が一番に浮かんだ。櫻に執拗に絡んでくる律のことだから、そのぐらいはしかねない。 でも律は予想とは違う答えをもたらしてきた。 「見ちゃったんだよね、連休中に。兄さんがふりふりのワンピース着た子とデートしてるの」 心当たりはもちろんあったが、平静を保ちいつもの顔で律を見返す。 「相手女の子だと思ってたんだけど、今日の子と雰囲気が似てる気がして。髪色は違うけど、そんなものは染めれば簡単に変わるしね。だから間違いなく兄さんの恋人だと思ったのに」 やっと律の確信めいた態度の意味が分かった。以前目撃していたから律はあれほど強気に迫ってこられたのだ。それにしても一ヶ月も情報を寝かせておくなんて、やはり律はどうかしている。一番効果的なタイミングを待っていたのだろう。つくづく食えない奴だ。 「でも今日の子は忍くんの相手で、兄さんの恋人とは別人なんだよね?」 勝ち誇った顔をされて腹は立つが、正直なところどう取り繕ったところで律の興味を削ぐことは不可能だろう。櫻がこの場で嘘を重ねても、忍と口裏を合わせる前に律に接触されてしまえば無駄に終わる。葵がよほど大事な存在だと示す証拠にもなってしまう。 「あとで忍くんに挨拶しに行かなくちゃ。もちろん、あの子にもね」 櫻が黙ったのを敗北宣言と受け取ったのだろう。律は満足げに微笑んでようやく部屋を出ていった。 忍が付き添ってくれているし、律は櫻以外にはいい子の仮面を外さないから大丈夫だと信じたいが、葵を戸惑わせる絡み方をしないかが不安になる。櫻はすぐに忍に電話を掛けるが、マナーのいい彼はとっくに電源を落としてしまっているらしい。やむなく葵に連絡するが、彼も同じく。 仕方なく櫻は簡潔に事情を説明したメッセージを忍に送り、彼が出来るだけ早く確認してくれることを祈るしかなかった。 「……ムカつく」 律にではない。自分自身に対してだ。 あれほど反省したあの日のデートが、またも葵を傷つけかねないことになるなんて。いくら葵が来たがったからとはいえ、呼ぶのは間違いだったかもしれない。忍にけしかけられても、最終的に許可を出したのは櫻だ。何かが起こった場合の責任は自分にある。 櫻は深い溜め息をつきながら、葵が選んでくれたであろう花束を抱き寄せる。 爽やかさを感じさせるライトブルーの薔薇と淑やかな印象を与えるかすみ草の組み合わせは、櫻のイメージにはそぐわないと思う。実際、櫻に贈られるのは派手に咲き誇る大輪の花々か、真っ赤な薔薇が多い。それが世間一般の自分のイメージなのだろう。 でも葵はこれを選んだ。きっと葵自身が素敵だと思うものに手を伸ばした結果だと思うが、それが嬉しかった。出会った時には名前も家柄も知らなかったぐらいに櫻に興味がなかった子だ。色眼鏡で櫻を見ることもない。だからどうしようもなく惹かれたのだろう。 傷付け、失敗を重ねても、葵は変わらず櫻に懐いてくれている。それに甘えている自覚はあった。いつまでもこの状態ではいけないことだって分かっている。 葵を守り、支えてやれる存在にならなくては。 タキシードに着替え、鏡に向かってもう一度息をつく。今度は自分の力不足を嘆く溜め息ではない。それは敵だらけの戦場に向かう前に己を奮い立たせるためのものだった。

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