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act.8月虹ワルツ<340>

* * * * * * 留学の話が出てからというもの、スケジュールに英語のレッスンが組み込まれるようになった。ただでさえ藤沢家の子息として必要な教養やら知識やらを詰め込めと言われているうえに、さらに拘束時間が増えたことは椿にとって苦痛でしかない。 度々予定をすっぽかしては息抜きがてら葵の様子を窺いに出掛けていたが、冬耶と会話をしてからは近づき難くなってしまった。椿自身への監視の目も強まっている中で、日曜が唯一心からくつろげる日だった。 二度寝を楽しんで、ようやく布団から抜け出たのはもう昼と呼んでもおかしくない時間。空腹を感じるが、冷蔵庫を確認しても中には酒が数本しか入っていない。煙草に火を付けながら、外食に向かうか、それとも出前を頼むかを思案する。 以前は安い食材や、値引きされた惣菜を買い漁っていたものの、藤沢家のカードを自由に使えるようになってからは自炊の選択肢はすっかりなくなってしまった。与えられたこの家でキッチンを使った記憶は一度もない。綺麗な状態の調理器具が、使われる時を待つように鎮座している。 咥えるものを煙草から歯ブラシに変えながらデリバリーのサービスを携帯で確認していると、嫌な名前が通知欄に現れる。 メールに記されていたのは車で三十分以上掛かる距離にある住所。何の説明もなくそれだけ送られてきたが、ここに向かえという意味なのだろう。無視をするのは簡単だ。このまま携帯の電源を落とし、全く別の方角へ車を飛ばしてしまえばそれで済む。 悩んだ挙句身支度を整えた椿がナビに入力したのは、先ほど送られてきた住所だった。馨が何を考えているのかぐらいは探っておいたほうがいい。そう思ったからだ。でも目的地に到着してすぐに椿は己の選択を後悔することになる。 “Fiero” 大通りに面したガラス張りの店舗には、黒地に白の文字が掲げられている。その名には覚えがあった。馨と縁のある女性が代表を務めるファッションブランドだ。 彼女の息子である聖との撮影を計画するだけでなく、椿とも、なんて言葉はその場の思いつきの軽口だと思っていたが、どうやら馨はその気になってしまったらしい。路肩に車を停めたはいいが、自らの衣装を誂えに店内に入るなんて御免だ。だが同時に、彼女と馨との関係を探りたい欲にも駆られる。 椿が店舗に近づくと、入り口に控えていたドアマンが優雅な仕草で扉を開けてくれる。誘われるがままに店内に足を踏み入れると、爽やかな甘さとスパイスが混ざったウッディな香りが鼻腔を満たした。 「椿さん?」 メンズのコーナーを適当にふらついていると、背後から声を掛けられた。パンツスーツがよく似合う女性は、ここの主である絹川リエ。馨の元に衣装を置いていった際に挨拶だけは済ませていたからか、二度目の対面だというのに親しげな笑顔を向けてくる。 「待ってたわ。さぁ、どうぞこちらへ」 「……もしかして俺の服作るみたいな話になってる?」 店の奥に通そうとする手を拒んでこの面会の意味を問いただすと、彼女は一瞬驚いた顔をしてみせたあと笑い出した。 「馨さんは何も話してないのね。私はアイちゃんとあなたの写真を撮りたいから衣装をって聞いてるんだけど」 「あぁやっぱり。それなら俺はパス。馨のおもちゃになる気はないから」 彼女はただ仕事として請け負っているのだと分かっていても、馨の悪趣味な遊びに手を貸す相手に取り繕う気も起きない。椿が棘のある言葉で言い返すと、リエは困ったように眉をひそめた。

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