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act.8月虹ワルツ<343>

* * * * * * 耳元で繰り返し自分を呼ぶ声と肩を揺する手によって、葵は重たく閉じていた瞼を開いた。見渡せばそこには深紅で統一された座席が広がっている。葵が覚えている限り暗く落とされていたはずの照明は、今は橙に色づき、ざわめきと共に人々が席を立ち始めていた。 「気持ちよく眠っていたな」 終演と共に呼び掛け続けてくれたのだろう。隣席の忍は葵が目覚めると呆れるよりも安堵した様子を見せる。 「ごめんなさい、いつのまに寝ちゃったんだろう」 「退屈だったか?」 「いえ、そんなことは……」 忍の口調は演奏中に熟睡した葵を責め立てるようなものではない。むしろどこか申し訳なさそうに聞こえる。 慣れないジャンルのコンサートではあるが、事前に忍の講釈もあったおかげで純粋に楽しめていたはずだった。一人一人の演奏はもちろん、時折挟まれるアンサンブルも素敵で、退屈だなんて感じることもなかった。それでもいつのまにか眠りに落ちていたのはおそらく、と葵は心当たりを口にした。 「朝薬を飲んだからだと思います。まだ少し熱っぽいから飲んだほうがいいって言われて」 眠気を引き起こす可能性のある薬を、本当なら飲みたくなどなかった。けれど冬耶と遥、二人がかりで説得されれば葵に勝ち目はない。でもこうして演奏を途中までしか楽しめなかったことを知ると、断ればよかったと反省する。 「お昼は何も飲まないようにしますね」 午前と午後に分かれた二つの部の間に、隣の会場で簡単な昼食会があることは忍から教えられていた。だから午後はしっかりと演奏会を楽しむためにも、葵はそう宣言する。 「自分の体を優先しろ。別に眠ったって構わないよ」 「でも午後は櫻さんの演奏があるので」 「ちゃんと起こしてやるから」 頭を撫でてくれる忍の手は優しい。おまけに目を擦る為に一旦外した眼鏡も、忍が丁寧に掛け直してくれた。甘やかしてもらうのはとても心地いい。 「お兄ちゃん」 「ん?」 「へへ、なんだか本当に会長さんがお兄ちゃんになってくれたみたいだなって」 周りから人が居なくなったため、葵はこの会場では禁じられている“会長さん”という呼び名を口にした。 「そうか。なら、いつもそう呼んだっていい」 寝起きでまだふらつきがちな葵を支えてくれるために忍は手を差し伸べながらそう言った。 学園でも忍のことを“お兄ちゃん”と呼ぶところを想像すると、違和感がありすぎて面白い。でも皆の憧れである忍を兄と呼べるなんて随分な特権だとも葵は思う。 「弟さんに悪いですよね」 「臣に?いや、別にあれのことは気にしなくても」 今日何度も聞いた忍の弟の存在を思い出して気に掛けた葵とは対照的に、忍は本当に何も思っていなかったらしい。 でも葵は自分の兄が他人から“お兄ちゃん”なんて呼ばれて甘えられていたら、少し妬いてしまいそうだ。 「会長だろうと、兄だろうと。俺は葵に呼ばれれば何でも答えてやる。呼び方なんて気にしない」 ホールを出てすぐ右に曲がれば隣接した昼食の会場へと続く渡り廊下が始まる。そこに差し掛かると辺りは来客者で溢れていて、忍にはそう言ってこの話題を切り上げられてしまった。 それは臣の存在を気にする葵を安心させるための単純な励ましのようで、もっと違う意味で捉えられるような言葉だった。周囲の人たちの視線に愛想笑いを浮かべて応える忍を見上げて、葵は一人胸の締め付けられる想いに駆られた。 彼が下の名前で呼ばれたがっていることは知っている。その気持ちに応えたいと思いながら、未だに保留状態のまま。きっと忍はそのことを気にするなと言ってくれているのだと思う。 「……ごめんなさい」 不甲斐なさを詫びる言葉を口にしたが、それは周囲の喧騒にかき消され、忍の耳に届くことはなかった。

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