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act.8月虹ワルツ<345>

「あ、はじめまして。こんにちは」 葵からの視線にようやく気付いたように、彼はまっすぐに見つめ返して愛想よく笑いかけてくる。 「こんにちは、律くん」 「嬉しい、俺の名前知っててくれたんだ。ありがと」 葵が忍から伝え聞いた名前を付け足して挨拶を返せば、律は本当に嬉しそうに目を薄めた。葵と同い年のはずなのに、どう考えても年下だと見られていそうだ。 「そっか、俺の演奏聴いてくれたのかな。どうだった?」 「え?あ……えっと」 不意打ちをくらった葵は明らかに動揺してしまった。 それもそのはずで、律が舞台に上がっているのを見た記憶がないのだ。そういえばパンフレットの午前の部の終盤で律の名前があったような気がするが、その頃葵は眠りこけていた。感想を求められても答えることが出来ない。 でも忍が助け舟を出してくれる前に、律は困惑する葵をなだめるように頭を撫でてきた。 「ごめんね、意地悪言った。本当は舞台から見えたんだ。忍くんに凭れて眠っちゃってる君のこと」 律の言葉に一瞬頭が真っ白になってしまう。舞台から客席が、それも個人の判別が出来るほどはっきり見えるとは思ってもみなかったのだ。 「ごめんなさい。ちゃんと聴きたいって思ってたんですけど、すごく失礼なこと……」 「いいのいいの。そりゃ適当に感想言われちゃったら悲しかったけど。俺こそ分かってて意地悪したから、おあいこってことにしよ」 慌てて頭を下げた葵にそう言ってくれる律は、嫌味がなく評判通り爽やかな良い子である。開演前のあの微笑みは葵の見間違いで、きっと櫻の家庭環境を知っていたから彼のことも色眼鏡で見てしまっていたのだろうと反省したくなるほど。 「素直でいい子だね。忍くんが可愛がるわけだ」 どうして今のやり取りで律が自分を褒めるのか葵には分からなかったが、当たり前だと言って誇らしげに忍から抱き寄せられると、細かいことはどうでも良くなって純粋に嬉しくなってしまう。 律のすすめでしばらく会話を楽しむため、料理の並べられたテーブル前から人気の少ないフロアの隅へと移動する間も、葵はそんな小さな喜びに浸って自然と歩みも軽やかになった。 「で、名前、聞いてもいい?」 背の高い丸テーブルに皿を置き、近くに居たスタッフから三人分の飲み物を受け取って話しこむ準備を万全に整えた律は、改めて葵に自己紹介を迫った。 「って、俺もちゃんとしてなかったから先にするね。月島律、高二。ピアノを勉強してます。でも午後、オーボエとして叔父たちと四重奏するから、楽しんでね」 「はい、楽しみにしてます」 このまま失礼なまま終わったらどうしようかと思っていたのだが、律がもう一度チャンスを与えてくれて葵は心からホッとした。 パンフレットを見る限り、確かに殆どの人が独奏と協奏との二つをこなしている。思い返せば律の名も二か所で見かけていた。と同時に、櫻は一人でしか演奏する機会がなく、そこに親族との溝を感じてしまったことも葵は思い出して、また暗い気持ちに襲われそうだった。

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