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act.8月虹ワルツ<348>

葵は悩んだ末に、律にこう持ち掛けた。 「唱くんに挨拶してもいいですか?」 助けてあげたいとも泣き止ませてあげたいとも図々しくて言えたものではない。だが、これならかろうじて許容範囲に含まれると信じたい。 葵が恐る恐る律の表情を窺うと、彼は気分を害した様子もなく、いいよと笑ってくれた。そして唱をここまで連れて来ると言って立ち去ってしまう。 「余計なことしちゃったでしょうか」 「気にするな」 律の背中を見送っているうちに不安になって葵が隣の忍を見上げると、ぽんと頭に手の平を乗せられそのまま撫でられる。 「葵のそういう所に、俺もよく癒されているから」 忍に何かしてやれた覚えも、まして癒している覚えも葵には全くない。答えを探るような目線を送ると、忍はテーブルに置かれたままのナプキンとトンと指で叩いた。 「こういった慰め方を、俺は思いつきもしなかった。あいつが名前で疎外感を感じているだろうと想像したこともない」 葵がどうしてそこに自分の名前を書いたのか。忍には理由が分かったのだろう。気恥ずかしいが、バレてしまったものは仕方ない。 忍はペンを取り出すと、葵の名に続けて自分の名をそこに刻み始めた。光沢のある万年筆から描かれる線は、律のボールペンと違って太くて濃い。ナプキンに少し滲みが出来てしまったが、それでも彼自身を表す綺麗な一文字が浮かんだ。 「俺にも葵と同じことが出来たはずだったんだ。名の由来は何事にも耐え忍べるようにという祖父の願いからだから花とは別物だが、俺の名前の付く花はある。知っているか?」 「いえ」 「ハナシノブ。色々と種類はあるようだが、青や紫の綺麗な花だ。俺のガラではないがな」 珍しく無邪気な笑みを浮かべた忍に、葵もつられて頬を緩ませた。 心の片隅で同じ名前の弟の事を思い出していたが、不思議と今、辛い気持ちは生まれなかった。花に関する名前という、自分と弟の唯一といっていいほどの共通点が見つかったからかもしれない。お揃いというだけで嬉しい。 だから自然と、少し踏み込んだ話を忍にすることが出来た。 「僕は名前の本当の由来を知らないんです。漢字を説明する時は分かりやすいからお花の葵、って言ってるだけで」 忍は皆の名前が刻まれた紙ナプキンをいじる葵の手に自分の手を重ねるだけで、口を挟まずに先を促してくれる。 「だから初等部の頃に出された、自分の名前の由来を両親に聞いてくる、っていう宿題にはすごく困って」 陽平たちが親身になって色々と考えてくれたけれど、葵は素直に分からないと教室で発表をした。 先生には宿題をやってこなかったと受け取られ責められたし、希望や期待の詰まった名前を発表し続けていたクラスメイト達は葵をここぞとばかりに馬鹿にした。 我慢が出来ずに泣いた葵を守ったのは他でもなく京介で、自分も分からない、宿題をやってこなかったと大きな声で発表してくれた。放課後、一緒に先生から説教を受けたのは今ではいい思い出になりつつある。 「お兄ちゃんたちはきっとヒマワリの葵だって言ってくれてるし、みゃーちゃんも葵の花は好きだって言うから、そこから由来は単純にお花からとった、でいいかなって勝手に思ってるだけなんです」 「そうだな、その位気楽に捉えていいものだ」 自分の名の由来を決めつけてしまうだなんて褒められたものではないと葵は思うが、忍が賛同してくれて安堵した。 「花の名前を貰ったから、葵はこんなに可愛く育ったんだろうし。ぴったりの名だよ」 頬に触れてくる忍にさらりと恥ずかしいことを言われて顔が火照るのを感じる。

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