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act.8月虹ワルツ<349>

「このぐらいで赤くなって。あまり煽るなよ。離れがたくなるから」 そう言いながら、忍は葵の頬を弄って遊んでくる。それはくすぐったくて心地良いけれど、体の奥で熱がじわりと燻る感覚も生み出しそうだった。あまり長く続くと困ったことになりそうだが、かといって忍の指をあからさまに避けるわけにもいかない。 「あの、律くん遅くないですか?」 「そういえばそうだな」 忍の意識を逸らそうとした葵の狙いは成功してくれたらしい。見える範囲に居た唱を連れてくるには時間が掛かりすぎているのは本当のことだ。 その答えを先に見つけたのは忍だった。 「あぁ、分かった。面倒な人に捕まってるみたいだ。ほら、見えるか?」 忍が教えてくれた方向を見れば、律は大柄な初老の男性の相手をさせられていた。それは開演前に忍と一緒に挨拶をした人だ。悪い人ではないが如何せん話が長い、と忍が零していたことを葵は思い出す。だから面倒なのだろう。 「あ、じゃあ唱くんは……」 「探しに行くか?」 必然的に泣いたままでいる唱を葵が心配すると、忍が先回りして提案してくれた。頷けば当然のように手を繋がれたけれど、それを照れくさがっている場合ではない。 唱を探す為にフロアの中を歩き回っているあいだ、目立つ忍と手を繋いでいることに好奇の視線があちこちから向けられていたたまれなかったが、堂々としていろなんて有難いのか微妙なアドバイスを貰って気にしないフリを決め込んだ。 けれど、葵の努力は空しくフロアの隅々まで探しても唱は見当たらず、いたずらに忍とのツーショットを見せびらかしただけの結果に終わってしまう。 「会場に戻ってみるか。本当ならまだ食べさせたいところだが、もう用はないだろう?」 律の登場があって結局あのまま食事が中断したことを暗に咎められたから葵は少し気まずくなって、ただ頷いて答えた。 ホールがある元いた建物のエントランスには葵たちと同じように昼食に見切りをつけてきた人たちがまばらに集まっている。その中に唱の姿を探したのだが、ざっと見回しても見つからない。 「控室に戻っちゃったんでしょうか」 残念な気持ちを隠しもせずに葵が尋ねれば、忍は軽く首を振って肩を竦めてみせた。 「どうだろうな。大方、親戚連中に演奏のことでケチをつけられて泣いていたんだろうから、その可能性は低いとは思うが」 「いつもそうなんですか?」 「あぁ、いつものことだ。そうやって鍛えられるんだよ、月島の人間は」 また葵の住む世界とは別次元のものを教えられた気がした。一生懸命練習して、あんなに緊張しながらも最後まで弾きこなしたことを誰も褒めてはやらないのだろうかと、胸が痛くなる。 「櫻さんと律くんも?」 「二人は例外かもしれないな」 葵が知っている二人を挙げれば、忍は少し困ったように眉をひそめた。 「櫻の出自や人間性は皆批判するが、演奏だけは評価している。直接褒めやしないが、その腕前を貶すこともしない」 「じゃあ、律くんは?」 「律のことは揃って褒めているよ。どうしても櫻には敵わない律を憐れんでいるんだろうな。本人もそれをよく自覚している」 「……そっか」 忍の口からもたらされた彼らの状況に、葵は聞かなければ良かったと後悔した。苦手な世界だと、改めて思いもする。 櫻は今どんな気持ちで一人、時を過ごしているのだろう。近くに居るはずなのに会えない相手の顔を思い浮かべながら、葵は忍と繋いだ手に力を込めた。

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