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act.8月虹ワルツ<350>

* * * * * * 予想通り、月島家の特殊な世界は葵にとって気分の良いものではなかったらしい。会話を進めるうちにただでさえ白い葵の頬が青ざめていくのが分かった。繋いだ手も心なしか冷えていく感覚がする。 どう慰めてやろうか思案していると、不意に葵の歩みが止まった。視線の先には中庭のベンチで一人佇む唱の姿。結局会場内では誰にも構われず、ここに辿り着いたのだろう。 こうしてエントランスからすぐに見える位置にいるところから察するに、やはり誰かに話を聞いて欲しくて仕方ないのだろうと思わされる。 「……あの」 「あぁ、挨拶しに行きたいんだろう?」 葵が何を言い出すかなんて聞かずとも分かる。正直なところ泣き虫で騒がしい唱の相手は得意ではないが、葵が望むならば仕方ない。手を引いて中庭へと歩き出すと、葵は嬉しそうに頷いて後をついてきた。 「忍くん!来てくれたの!?」 中庭へのガラス戸を開けると、その物音を聞きつけて顔を跳ね上げた唱が途端に大きな声を上げた。 忍自身は特段子供に懐かれるような風貌や性格ではないと思うのだが、月島家の兄弟に限っては律をはじめ、奏も唱も何故か親しげに接してくる。そのたびに長兄である櫻の代わりとして甘えられている気がして、複雑な思いに駆られてしまう。 「演奏聞いてくれた?どうだった?」 「唱、俺に連れがいるのが見えないのか?まずは挨拶だろう」 膝の上に乗せていた手提げ鞄を放り投げてまで駆け寄ってきた唱を受け止めながら、忍はまだ月島家の一員としての立ち居振る舞いが出来ない幼さを指摘する。泣こうが喚こうが、彼もまたここで生きていくしかない。せめて少しでも賢い生き方を身に付けなければ、苦労するのは唱なのだ。 「ごめんなさい、忍くん」 「謝るなら俺ではなく葵に。今日一緒に来た連れだ」 忍の視線を辿るように、唱はようやく葵のほうを向いた。律に似たその顔は、泣いた名残で目元だけでなく鼻先まで真っ赤になっていた。見知らぬ相手に多少の緊張を滲ませはしたが、それは瞬時に取り払われる。 「こんにちは、唱くん。はじめまして」 唱と目線を合わせるためにしゃがみこんだ葵。誰にも構われずに寂しい思いをしていた唱にとっては、それだけで心を開くには十分だったようだ。 唱は自分がさっきまで座っていたベンチまで、忍と葵を導いた。すっかり話し込む気でいるらしい。葵とのあいだに割って入られるのはやや不満ではあるが、小学生相手に嫉妬するのはさすがに情けない。 「今日は今まででいちばん上手にひけたと思ったんだ。なのに、みんな怒るんだ。もうやだよ」 二人のあいだにおさまった唱は、ロクな前置きもなしに誰も聞いてさえくれなかった愚痴を溢しはじめた。 「兄さんも、りっちゃんも、かなちゃんも、もっと小さい時にあの曲ひけてたんだって。すごくむずかしかったのに。やっぱりボクがいちばん下手なんだ」 「そうか?でもすぐ近くに唱の演奏を一番楽しんでいた奴が居るのを知っているんだが」 忍が唱を慰めてやると思っていたのか、悠長に構えていた葵に矛先を向けてやる。すると葵は驚いたように肩を大きく揺らした。 「え、それ誰?」 「……あの、僕、です」 唱の疑問に対し戸惑いながらも律儀に挙手をしてアピールする葵。その姿に思わず笑みが溢れてしまう。葵のこういうところが、堪らなく可愛らしい。 弟もいて、月島家の兄弟ともそれなりに交流のある忍とは違い、話を聞く限り葵は年少者と接した経験は少ないように思う。だから一体どんな風に唱を宥めるのか興味が湧いて、忍は彼らの会話を見守ることに徹した。

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