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act.8月虹ワルツ<351>

「本当に?」 「本当だよ。唱くんが弾いてくれた曲しか知らなかったから、始まる前から楽しみにしてて」 葵は忍が離脱したことで不安そうな目を向けてきたが、唱と向き合う覚悟を決めたらしい。背伸びをした感想を述べることはせず、自分の気持ちを誠実に話し始めた。 「やっと知っている曲が流れてすごく安心したし、僕よりもちっちゃい手がいっぱい広がって鍵盤叩いてるのがかっこいいって思ったよ」 「かっこいいなんて初めて言われた。まいにち指が広がるようにってストレッチしてるんだよ」 拙い感想に思えたが、唱にはそれが新鮮で嬉しいものだったらしい。さっきまで泣きべそをかいていたというのに、目を輝かせて得意げにストレッチを実践して見せ始める。葵はその様子を見て安堵したように息をつくと、思いがけないほど深い部分まで己の心を曝け出してきた。 「あの曲、僕のお母さんがよく聴いててね。今はお母さん、お星様になっちゃったから、本当はそれを思い出して悲しくなっちゃうかなって心配だったんだ」 唱を慰めることに気を取られ、忍がいることなど忘れてしまったのか。それとも聞こえてもいいと思えるほど忍に心を許してくれたのか。何にせよ、葵が自ら生みの母親の思い出を口にするのはあまりに意外だった。 子供と言っても、小学三年生なら物事の道理は理解できる。唱は聞いてしまったことに対して申し訳なさそうに表情を曇らせたけれど、葵は構わずに先を続けた。 「でも唱くんが元気に弾いてくれたから、とっても懐かしくて、嬉しい気持ちになれた。ありがとう。専門的な感想言えなくてごめんね。僕には技術とかそういうの、分からないから」 きっとクラシックやピアノに対する造詣が深い人間に褒められたほうが嬉しいはずだと思って葵は謝ったのだろう。だが唱はぶんぶんと勢いよく首を横に振って否定した。 「皆あそこの指づかいがなめらかじゃなかったとか、ペダルのふみこみが良くないとか、そういうことばっか言うんだ。だから、葵ちゃんみたいなこと言ってもらえるの初めてでうれしい」 気を遣っているわけではなく本当に唱が嬉しそうに笑うから、葵もつられて笑顔になる。 唱が随分年上なはずの葵を“ちゃん付け”で呼ぶことが気になりはしたものの、呼ばれた本人は全く気にしていないようだ。ようやく唱の気が晴れたようだし、ここでマナーがなっていないと口を挟むのは野暮というものだろう。 「それじゃあそろそろ行こうか、葵」 「え、どこ行くの?まだ午後のプログラム、始まらないよ」 席を立つよう葵に促すと、つられるように唱までベンチから立ち上がる。 櫻のいるリハーサル室を訪れようと提案したのは、慣れない場で疲労している葵の息抜きになればと考えたからだ。唱が同行すればそれは叶わなくなる。 「俺たちは櫻に会いに行くんだ。それでも着いてくるか?」 唱が長兄を怖がっているのは知っていた。だからこう言えば大人しく引き下がると思ったのだが、予想に反し唱はまるで救世主を見つけたとばかりに瞳を輝かせてきた。 「ボクも兄さんのとこ連れてって!忍くんが一緒なら安心だから」 「櫻に会いたいのか?なぜ?」 忍の記憶する限り、櫻から弟たちに歩み寄っている姿は見たことがないし、逆もまた然り。律だけは進んで櫻に絡みにいくが、奏や唱は不自然なほど距離を空けて言葉も交わさないのが常だった。 だから唱が同行したがる訳に心当たりが浮かばない。 「あのね、次がんばれなかったら、ボクの代わりにクラスでいちばん上手な子を月島の子にするってみんな言うんだ。だから、午後のヴァイオリン、ぜったい失敗できなくて」 実際に子供をよその家の子と交換するなんてことが行われるわけがない。だが、子供からすれば死活問題に感じるだろう。月島家らしい焚き付け方だ。忍は単にそんな感想を抱いたが、葵は違ったらしい。唱の話を聞いて一気に悲痛な表情になる。 「どうしてもむずかしくてひきにくい所があるんだ。みんなには教えてなんて言えないし」 唱の目的がようやく理解出来た。葵も察しがついたらしい。

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