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act.8月虹ワルツ<352>

「それで櫻さんに教えてもらおうと思ったの?」 「うん。兄さんね、ピアノはもちろん上手だけどヴァイオリンもすっごく上手なんだ。みんな言ってるよ!本当にすごいんだ!」 恐れてはいるものの、唱は櫻の事を誇らしく思っているらしい。自分のことのように胸を張って自慢する唱の姿に、葵の表情が心なしか和らぐのが分かる。でも忍は険しい顔を続けざるをえない。 「最初に言っておくが、俺は唱たちの間に入ってやる気はないからな?櫻に頼み事があるなら自分の口から話せ」 「ダメだよ、ぜったい怒るもん!」 「怒るのは俺から伝えたって同じだろう」 「でも、でも、一人で言うなんてムリだよ」 甘えた願望をきっぱりと断る忍に、唱は地団太を踏んで悔しがり始める。こういった訴え方をするあたり、まだまだ子供だと思わせる。 どうしたものか。溜め息をつきながら唱の様子を見下ろしていると、葵が“何とかしてあげたい”と言いたげに忍のスーツの袖を引っ張ってきた。 「まぁ、葵は櫻のお気に入りだから、差し出せば相当機嫌は良くなるだろうし、唱が話しかけても文句は言わないかもしれないな」 正直なところどう転ぶか予想がつかないが、葵との関係が深まり精神的な安定を見せてきた櫻のことだ。普段は避けたがっている唱相手にも、まともな言葉を掛けてやれるようになるかもしれない。 「ほんと!?葵ちゃん、兄さんのお気に入りなの?」 「え、や、知らない」 再び忍が無茶な振り方をすると、唱は途端に葵へと期待の眼差しを向ける。葵は即座に否定してみせたが、こんな形で葵をからかうのも面白い。労ってやる、なんて目的はどこかに頭の隅に追いやられ、葵が慌てる様子を楽しみたくなってしまう。 「櫻に話や頼みごとがあるなら、葵を通せばいい。俺からよりも聞いてくれる確率が上がるよ。櫻は葵のことが大好きだから」 櫻が葵に抱く好意の種類までは理解出来ていなくとも、特別に好かれている自覚ぐらいはさすがにあるだろう。否定しにくい台詞を最後に加えてやると、葵からはただ困ったような視線が向けられた。 「じゃあ葵ちゃん、おねがい!いっしょに兄さんにたのんで!」 忍の言葉を真に受けた唱は葵の存在をすっかり頼もしいものと認識したらしい。唱から両手を合わせて頭を下げられ、葵はいよいよ断れない状況に追い込まれた。 「よそのおうちに行きたくないよ。ママとはなれたくない」 唱のダメ押しのような言葉が、葵の胸には大きく響いたようだ。 月島家の大人たちが唱にかける言葉はどれも脅しに過ぎないが、家族を失った経験のある葵にとっては他人事とは思えない台詞だったのかもしれない。 「分かった。一緒に頼んでみる」 「やったー!葵ちゃんだいすき!」 葵がそう言ってやると、唱は両手を上げて大喜びしてみせた。まるですでに願い事が叶うと確信しているような素振り。 「大丈夫でしょうか?」 早速リハーサル室に向かおうと意気込む唱に手を繋がれた葵は、不安そうにこちらを振り仰いでくる。請け負いはしたものの、櫻が快く引き受ける性格ではないことぐらいよく分かっているのだろう。 「さぁ、櫻の性格を考えたら素直に聞くとは思えないが」 「……そんな。唱くん、きっと期待してますよ」 「だろうな。どうしようか?」 忍が途中で逃げ出さないかが心配なのか、葵は唱と繋いでいないほうの手を伸ばしてきた。誘いのままに指を絡めながら、いつもの自分らしくない、はぐらかすような言葉を口にする。 「どうしてちょっと楽しそうなんですか?」 「お前と一緒に居るだけで楽しいから」 唱という邪魔者はいるが、葵と二人きりで過ごせる時間に、自分は思ったよりも浮かれているのだと思う。素直なことを口にすれば、咎めるようだった視線が大きく揺れた。 “それは僕も” 責めることを忘れ、はにかみながらもたらされた返答は忍をますます喜ばせた。 葵を慰めるためでも、強がりでもない。自分たちはこうして少しずつ距離を縮められている。だから本当にもう、葵からの呼ばれ方などどうでもいい。繋いだ手の小ささと温もりを感じながら、忍は改めてそう思った。

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