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act.8月虹ワルツ<357>
* * * * * *
唱の先導で向かった場所は明らかに部外者の立ち入りが禁じられたエリア。だが、そこを突き進んだとて、訝しげな目では見られるものの引き止められることは一度もなかった。月島家の一員である唱と、招待客の中でも特別な存在である忍がいることがその理由なのだろう。葵一人ではそこかしこにいる警備のスタッフにすぐ摘み出されていたと思う。
「おねがい、葵ちゃん。先に行って」
扉の前までは意気揚々と進んでいたというのにいざとなると勇気が出ないのか、唱は葵のジャケットを引っ張ってドアを開けるようねだってくる。
防音壁に囲まれた扉は分厚くてノブを回すのすら力が必要だったけれど、その先に櫻がいるのだと思えば、不安げな顔をする唱とは対照的に葵の気持ちは逸る一方だった。
「失礼します」
控えめに声を掛けながら扉を開くと、中にはグランドピアノが真ん中に置かれた空間が広がっていた。だが、ピアノに向き合うように置かれた椅子には櫻の姿がない。
室内を見渡すと、ピアノの向こう側に目的の人物が見えた。鏡張りの壁に沿うように並べた椅子を簡易的なベッド代わりにして横たわっている。あまり褒められた体勢ではないはずなのに、彼がそうしているだけで絵になってしまうから不思議だ。
扉の開閉音は聞こえただろうに、櫻は顔の上で組んだ腕を崩そうともしない。訪問者が葵だと気が付かなかったのか、それとも深く眠ってしまっているのか。
どちらにせよ、胸に募った櫻への恋しさを抑えることは出来なかった。
「櫻先輩、櫻先輩」
唱が同じ空間に居るが、今だけはいつもの呼び方を許してほしい。葵は櫻のもとに駆け寄ると、彼のシャツを引っ張り呼びかけた。
「……え、葵ちゃん?」
どうやら眠っていたのではなく、無視を決め込んでいただけらしい。訪問者が葵だと分かるなり、櫻は即座に起き上がってくれた。珍しく動揺した素振りを見せるから相当に驚かせてしまったようだ。こんな櫻の表情はなかなか見られない。
「へへ、連れてきてもらっちゃいました」
「びっくりした。このタイミングで僕のところに来るなんて、誰かと思ったよ」
ただ純粋に驚きを示す言葉だったのだろうが、胸に引っかかる発言だった。あの華やかな交流の場に顔を出すことを許されず、理不尽に隔離される櫻を気遣う人は誰もいないのだろうか。
そう思うと、ますます切なくさせられてしまう。
「ようこそ、葵ちゃん」
少し強引にも感じられるほどの抱擁。でも頬に当たる亜麻色の髪の柔らかさも、ほんのり香るフレグランスも葵を喜ばせた。
「本当に黒髪眼鏡っ子になってたんだね」
櫻に言われて葵は自分の格好がいつもと異なっていることを思い出した。もう数時間経っているから違和感もなく、馴染んでしまっていた。だから余計に櫻を驚かせてしまったのだろう。
「新鮮で可愛いけど、やっぱりいつもの葵ちゃんがいいな。一旦外してもいい?」
「はい。……あ、ダメです、唱くんがいるんで」
いつものほうがいいと言われた嬉しさに一度は頷きかけたが、この部屋に居るのは自分たちだけではないことを思い出してすぐに眼鏡を外す櫻の手にストップをかけた。
「唱?あぁ」
忍の陰に隠れている唱に初めて気づいた様子の櫻は一瞬眉をひそめ、そしてそれ以上のコメントをすることなく、眼鏡に添えていた手を戻した。
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