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act.8月虹ワルツ<358>
「体、大丈夫なの?」
「はい、お薬飲んだからもうすっかり元気です」
「それは薬のおかげでしょ。そういうのは元気って言わないの」
手厳しい指摘だが、葵の顔色や体温を確かめるように触れてくる櫻の手はひんやりと冷たくて気持ちいい。けれど唱のくだりが無かったかのように振る舞われて、葵は正直どうやって会話を彼のお願いに繋げるか頭を悩ませた。
「来てくれてありがとね。嫌な思いしちゃったでしょ?」
「いえ、お兄ちゃ……あ、会長さんが一緒に居てくれたから」
「なに、忍のことお兄ちゃんって呼んでたの?あぁ、親戚設定なんだっけ」
この会場ではもうすっかり慣れた呼び方だったのだが、櫻の前では気恥ずかしい。慌てて言い直したのだけれど、しっかりと聞かれて笑われてしまった。
「ね、“お兄ちゃん”、携帯見た?」
「携帯?いや、電源を落としたままだったから見てないが」
櫻のからかいに乗るほど、忍は子供ではないらしい。入り口付近の壁に凭れていた忍は、櫻の呼びかけに応じてジャケットの内ポケットを探る素振りを見せた。
「なんだ。だから来たのかと思ったのに。あぁ、ここ電波悪いから。こっちの送信履歴、見て」
櫻は椅子の背もたれに掛けてあったジャケットを引き寄せて自分の携帯を取り出すと、それを忍に投げて寄越した。そのあいだも櫻の腕の中におさまったままの葵は、一体どんな内容のメッセージなのかが気になったものの、口を挟む機会を逃してしまった。
「大丈夫、お前の心配しているような絡み方はされていない」
「そ、なら良かった。ちゃんとガードしてくれてたんだ」
「まぁな。しかし、あいつは役者だな」
「根っからのね。やんなるよ」
誰の話をしているのか葵には想像がつかなかったが、櫻が自分を心配してくれていたのだろうということは感じる。親族や来客者の誰かに気がかりがあったのかもしれない。
やはり櫻は優しい。今度は葵から彼に抱きついてみた。櫻へ少しでも多くの好きが伝わってくれますようにと、そんなことを願いながら。しかし葵の願いとは裏腹に、櫻には違った受け取られ方をされてしまった。
「甘えたいの?それとも、具合悪い?」
首を振るが、どうやら櫻には甘えん坊とみなされたようだ。よしよしと頭を撫でられて、一層きつく抱き締め直される。
でもそれが嫌ではなくて、むしろウィッグ越しでなく直に髪を梳いてほしいと考えてしまうあたり、甘えん坊で間違いはないのかもしれない。
「葵ちゃん、本当に兄さんと仲良しなんだね」
そうして櫻に抱き締められていると、こちらを観察していた唱の素直な感想が耳に入る。忍に語りかけたのだろう。声はひそめられているが、静かな空間だ。はっきりと聞こえてしまった。
こうした触れ合い自体を冷静に観察されることも、自分よりもはるかに年下の唱に子供っぽいと思われていそうなことも、葵の羞恥を煽った。慌てて体を離そうとするが、櫻はそれを許さなかった。葵の背中をやんわりと押さえ込み、腕の中に閉じ込めてくる。
「まだ時間あるよ。ゆっくりしていけばいいのに」
午後の公演が始まる時間を気にしたわけではないことぐらい分かるはずなのに、櫻はわざとらしく意味を取り違えてくる。
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