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act.8月虹ワルツ<359>

「いえ、そうじゃなくて唱くんが見てるから」 「アレのことは気にしなくていい」 ぴしゃりと跳ね除けられ、やはり櫻は唱の存在に触れたくないのだとはっきり思い知る。櫻の家庭環境や兄弟の関係に口を出せるような立場ではないことぐらい自覚はしているが、唱に依頼されている以上ここで引き下がるわけにはいかなかった。 「そういえば午前のプログラムで唱くんが僕の好きな曲弾いてくれたんです。午後もまた舞台に上がるって聞いて楽しみで……」 なんとか自然に頼み事に繋がるように言葉を選んだつもりだったのだが、雰囲気は和らぐどころかその逆。今までは薄く笑みを携えていた櫻の表情が明らかに険しく変化する。 「葵ちゃんって今日何しに来たんだっけ」 そんな言葉と共に櫻は立ち上がり、部屋の中央にあるピアノに向かってしまう。こんな形で温もりが失われると不安が込み上げてくる。慌てて後を追うが、鍵盤に向き合う形で椅子に腰を下ろした櫻は葵と目を合わせてくれない。 「あぁ、ダメだ。今はどうあがいてもみっともないこと口にしそう」 櫻は自嘲気味に呟きながら、戯れ程度に鍵盤を撫でる。軽やかな音色とは対照的に室内の空気は重くなる一方だ。 自分の発言のどこがいけなかったのだろう。櫻に何を問われたかを振り返れば、櫻ではなく唱の演奏が目当てでやってきたかのような発言が気分を害したと思い当たる。それはもちろん誤解だ。 この場をどう収めたらいいものか。助言を求めるように忍に視線を送ってみたが、彼は不安げな唱を傍に従えながらただ見つめ返してくるだけだった。口を挟まず、もう少し見守るつもりらしい。 「……あの、櫻先輩」 改めて声を掛けると、ようやく櫻は鍵盤を撫でる手を止めた。でもまだこちらを向いてはくれない。 「櫻先輩の演奏が一番楽しみです」 「一番じゃなくて、僕の演奏“だけ”楽しみにしてほしいんだけど」 ただ取り繕いたいわけではなく、紛れも無い本音。それを打ち明けてみても、櫻は満足してくれないらしい。つまらなそうな顔は相変わらず鍵盤に向けられたまま。 「うちの人間と関わることになる覚悟はしてたけど、“葵ちゃん”なんて呼ばれるぐらいの仲になるなんてね」 葵の失言だけが櫻の機嫌を損ねた要因ではなかったようだ。そもそも唱と共に行動したことがいけなかったのだと気付く。 でも一癖も二癖もあった月島家の面々と唱は違う。彼は櫻を蔑むことは一言も言わなかったどころか、才能溢れる兄を誇りに思っているようだった。だから葵も唱の力になりたいと思えたのだ。それを櫻に伝えたら、彼の気持ちも変わってくれるかもしれない。 「唱くんに頼まれたんです。午後の演奏で弾く曲で難しいところがあるから、櫻先輩に教えて欲しいって」 「それでここまで来たんだ?」 「いえ、元々櫻先輩に会いに来ようと思ってたところで唱くんに出会っただけです」 言い訳がましく聞こえるかもしれないが、櫻が一番の目的だったのは本当のことだ。必死に訴えると、櫻はようやく葵に向き合ってくれた。

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