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act.8月虹ワルツ<360>

「見ての通り、僕の専門はピアノ。アレが午後弾くのはヴァイオリン。どうして僕が?」 棘のある声音に冷たい目。こんな櫻と対面するのは出会った時以来のことだった。思わず足がすくむ感覚に陥るが、ここで引くわけにはいかない。 「でも櫻先輩はヴァイオリンも上手だって唱くんが言ってましたよ」 「それは事実。けど、どうせ本業の奴等に叱られたから僕のとこ来たんでしょ?こんな時だけ擦り寄る都合のいい存在にされるのは気分が悪い」 そう言って櫻は唱に視線を投げる。 「いつもは化け物でも見つけたみたいな顔して避けてるくせにね」 大袈裟すぎる物言いに思えたが、櫻を恐れるように忍の後ろに引っ込んでしまう唱を見ると、これが彼らの関係なのだと思えてくる。唱が櫻に尊敬の念を抱いていることは間違いないはずなのに。それも月島家に蔓延する櫻への評価のせいなのだろうか。 なんにせよ月島家の確執に初めて触れる葵が迂闊に立ち入ってはいけない話題だったのだと思う。 「自分で直接頼まず、葵ちゃんを利用するところも小賢しくて腹が立つ」 吐き捨てるように加えられた言葉で、櫻の怒りの原因が単純なものではないことも知る。葵が唱の願いを聞こうとしたことが悪い印象を与えてしまったようだ。この作戦は明らかに失敗だったのだろう。 もう葵にはどうしようもない。再び忍に助けを求めるために目を向けると、彼は苦笑いで頷きを返してくれた。 「櫻。唱から言い出したわけではない。俺の口添えだ」 「だろうね。何を期待したんだか」 忍が口を挟んでも、櫻は大して驚く様子を見せなかった。ただ呆れの混じった顔で友人を一睨みするだけ。それで櫻の怒りが収まってくれれば良かったが、そう上手く事は運ばない。 「この日の為に十分な練習時間を与えられてるはずだよね?それがどうして直前になって泣きついてくるような事態になるわけ?自分の怠慢で人の時間を無駄にさせる気?」 すでに十分すぎるほど後悔していそうな唱に向けて掛けるには厳しい正論だった。唱は練習不足の自覚はあるのか、忍の影に隠れながら気まずそうに俯いてしまう。 「失敗したってそれが糧になる。もうそんな思いはしたくないって次はきちんと練習するでしょ。だから今日はもう諦めて盛大に恥かいて笑われればいいよ」 「……そこまで言わなくても」 それは唱の将来を思っての優しい言葉にも聞こえるが、最後のセリフはあまりにも鋭い。唱が泣き出したから余計にそう感じる。思わず宥めるような言葉が口をついて出てきた。 「あ、そう。やけに庇うね。葵ちゃんにまで悪者にされるとは思わなかった」 「ごめんなさい、そんなつもりじゃ」 櫻を責めたいわけではなく、ただ唱を助けてやりたかっただけだ。その想いをどうやって言葉にすればいいか悩むうちに、櫻は“もういい”と言って全てを拒絶するように鍵盤を覆った蓋の上に突っ伏してしまった。 柔らかな曲線を描く髪が揺れていつもの香りが漂うけれど、今は葵の心を弾ませてはくれない。 「葵、おいで」 顔を伏せたまま微動だにしない櫻と、鼻を啜りながら泣き続ける唱。少し前には想像もしなかった酷い状況にただ狼狽えるしかない葵を救ったのは忍だった。彼の元に向かうと、忍は慰めるように抱き締めてくれる。

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