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act.8月虹ワルツ<361>

「素直に手を貸すとは思わなかったが、ここまで拗ねるとはな」 「……櫻先輩が怒るって予測出来てたんですか?」 「よほど葵が来るのが楽しみだったんだろうな」 分かっていて火種を投下させた忍に苦言を呈したかったというのに、忍は葵の問いには答えずどこか面白そうに笑って頭を撫でてくる。葵の来訪が楽しみだったことと、今回の一件がどう繋がるのかが分からない。 答えをねだるように忍を見上げると、彼は櫻に聞こえないようにか、耳元に唇を寄せて囁いてきた。 「葵は自分の味方でいてくれると期待していたんだよ」 「櫻先輩の敵になったつもりなんてないです」 「それはもちろん櫻だって分かっているよ」 忍には櫻が何故ああした反応を見せたのかを理解出来ている風だった。でもそれ以上の説明を葵に与えてはくれない。仕方ないと言いたげに櫻のほうを見て笑うと、まだ涙が引っ込まない唱を控え室に送り届けようと告げてくる。 「時間を置けば落ち着くだろう。さぁ、行こうか」 忍に促されて一度はリハーサル室を出ようとした。けれど、あの状態の櫻を放っておくのはどうにも気が引けてしまう。忍の言葉で、いつだって気丈な櫻が今は随分と心細そうに見えてしまうから尚更だ。 「あの、やっぱり……」 ここに残りたいと切り出せば、忍は少し悩む素振りを見せたが、唱を楽屋まで送り届けたら迎えに来ると約束してくれた。 忍が出て行くと、室内は痛いほどの静けさに包まれた。このまま部屋の隅で大人しく忍の迎えを待とうかとも考えたが、こうなった原因が葵にあるのなら取り繕えるのもやはり自分しかいないだろう。 ピアノに突っ伏したままの櫻に歩み寄って、葵よりは逞しい、けれど男性にしては華奢なその背中にぎゅっと抱きついてみた。漂ってくる甘い匂いが、今は少し悲しく感じられる。 「行っちゃったかと思った」 櫻は顔を上げず、葵に抱き締められたままぽつりと溢す。こんなに弱々しい姿を見ると、彼の部屋での出来事を思い出す。“月島”を名乗る前の名字を聞かされた時のことだ。あの時も葵は櫻に触れずにはいられなかった。 「みっともないとこ見せるつもりなんてなかったんだよ。今日はステージでかっこいい姿だけ見せたいと思ってたのに」 「櫻先輩はいつだって綺麗で、かっこよくて、素敵な先輩ですよ」 葵は櫻の体に回した腕に力を込め、自分なりの素直な感情を口にしていく。すると背中が数度小刻みに震える。泣き出してしまったのかと思ったのだが、どうやら笑っているらしい。 「そっか、葵ちゃんの評価が甘くて助かった」 生真面目に答えたつもりなのだから、笑われるのは予想外だった。けれど、まだ顔を見せてくれない櫻の声がほんの少し明るくなってように思えて安堵させられる。 「でも噂通り嫌な奴とも思ったでしょ。子供泣かせるなんてさ」 “間違ったことを言ったつもりはない”、櫻はそうも付け加えたけれど、唱への態度を葵がどう評価したのかを不安がっているのは確かなようだ。 「そんなこと思わないです。厳しいとは感じましたけど、それは櫻先輩が自分にも厳しいからだろうなって感じましたし」 月島家で生き抜いてきた櫻だからこそ、ああした台詞が出たのだとも思う。今日の演奏会では皆、櫻の腕前を評価する言葉を口にしていたが、もしかしたら過去には櫻自身がステージの上で嘲笑の対象になったこともあるのかもしれない。 「唱くんのためを思ってのことなんですよね」 「さぁ、どうだろう?僕よりも先に葵ちゃんを喜ばせたって聞いて嫉妬しただけかもよ」 「え……嫉妬って」 未だに櫻は顔を伏せたままでその表情は窺えない。だから葵をいつものようにからかっているのかどうか、判別がしづらかった。適切な返し方も分からない。

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