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act.8月虹ワルツ<362>

「少しでも楽しんでもらえればいいって思ってたくせに、いざ僕以外の演奏に感動されたら面白くなくなったのかもしれない。会ったばっかのあいつが僕と同じように“葵ちゃん”って呼んだのもムカついたのかもね」 “かも”と仮定の位置付けは崩さないけれど、そう言うからには実際に櫻が感じたことを打ち明けてくれているのだと思う。 「それでも思わないの?嫌な奴って」 櫻が葵からの印象を不安に思い、随分分かりやすく確かめたがって来る。 葵も昔からパニックを起こした後や何か失敗をしたあとなど、家族や遥に嫌と言うほど確認したがった覚えはある。今でもその傾向がなくなったわけではない。どんなに確かめても不安が消えないことは自らの経験上よく知っているのだけれど、それでも櫻の不安が少しでも軽減されるよういくらでも答えるつもりだ。 「思わないです。櫻先輩のこと、悪者だと思ったこともないです。ずっとずっと味方です」 「……珍しいね」 櫻が少し前に告げた言葉まで否定する訴えに、彼はただ静かに笑った。それだけで櫻が今までどれほどの孤独を感じていたのかが垣間見えた気がした。 「会長さんもきっとそうです。それに奈央さんだって、上野先輩だって……」 「別に沢山いればいいってものでもないよ」 少しでも櫻を励まそうと、思いつく限りの名を出していこうとするが、それはすぐに遮られてしまう。 「誰も必要ないってことですか?」 「違うよ。ここに居て欲しいのは葵ちゃんだけだし、僕を抱き締めていいのも葵ちゃんだけ。そういう話。光栄に思いなさい」 先輩たちを差し置いて特権を与えられたことは素直に嬉しいと感じるが、一方で傲慢な言い方の裏に彼の繊細な面が隠れていることも今なら分かる。 葵は櫻よりも年下で頼りないけれど、こんな時はもっと遠慮なく甘えてほしいと溜め息を零したくなる。でもそんな櫻が好きだ。 「本当は僕が甘えん坊でお子様な葵ちゃんをあやしてあげないといけないんだけどね。たまには逆も面白いでしょ」 面白い、という言い方も櫻の捻くれっぷりを如実に表していた。少しも顔を見せてくれないところもそうだ。そろそろ正面から向き合って、表情を窺わせてほしいと思うのだけれど、まだ時間がかかりそうだ。 それにいつもと変わらず饒舌だったくせに急に櫻は口を噤んでしまう。あまりにも静かで、寝入ったのかと思えるほど。 穏やかな呼吸に合わせて上下する背中に頬を寄せていると、葵までその体温と心地よい揺れに眠気が訪れてきそうだ。鼻をくすぐる甘い花の香りがそれを助長する。 「やっぱり、この匂いだ」 櫻がいつも身に纏うこの香りは、こうして改めて近くで嗅ぐと、記憶の中のものとぴったり一致することが分かる。だから葵は思わずそう呟いた。 「なにが?」 櫻に聞かせる為に言ったのではなかったのだが、この距離で聞かれないほうがおかしい。またその話、とあしらわれるのは目に見えていたが、自分が振った話題のせいで生じた問いを無視することはできず、葵は口を開いた。 それまでこれと言って接点を持たなかった櫻との、初めての出会いの瞬間。そのきっかけとなった出来事。 特別ではない普通の一日で終わるはずだったその日を変えたのは、冬特有のロマンチックな真白い雪ではなく、雪混じりの酷い雨だった。

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