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act.8月虹ワルツ<364>

体が弱ると心まで弱っていくようで、自分の常日頃のお荷物っぷりが情けなくて自然と涙が溢れて来てしまった。頬を伝っていく涙がやけに温かく感じるのだから、既に体は相当冷えているのだろう。 そうしてしばらく涙を零しているうちに、とろとろと眠りに誘われていく感覚に陥ってきた。昨日まで行われていた期末試験のおかげで寝不足が続いていたのも響いたようだ。 こんな状況で、と思いながらも葵はもう瞼を開けることはできなくなっていた。 浅い眠りの中を揺蕩っているあいだ、葵は短い夢を見た。 直前に見た光景が強く印象に残っていたようで、色とりどりのステンドグラスの光を浴びてマリア様がオルガンを弾いている夢だ。映像は靄がかかっていたけれど、その美しい音色だけはやけに耳に響く。 葵はもっともっとその素敵な夢の続きを見たかった。だが、やがてオルガンの音色は止まり、マリア様はどこかへ消えてしまう。 「……待って」 あまりの名残惜しさに葵は現実でも声を出していたようだ。自分の声で目が覚めるなんて恥ずかしい。おまけに縋るように手まで天井に向かって伸ばしていたのだ。傍に誰も居なくて良かったと思わざるを得ない。 「良い夢だった」 日頃どちらかと言えば夢見の悪い葵にしては、好んで読む絵本のワンシーンのような幻想的な夢。満足げに溢した葵は、そこで違和感に気付く。体を起こせば、すぐに理由が分かった。見覚えのないものが葵を覆っているのだ。 紺色のダッフルコート。厚手の生地は少し前まで誰かが羽織っていたようで、冷えた体には染みるほど温かい。 葵は慌てて狭い教会内を見渡したのだが、やはり眠った時と同じで他には誰も居ない。 腕にした時計を確認すれば、少し眠っていただけと思っていたのに三十分以上が経過していた。そのあいだに誰かが来て葵にコートを掛けてくれた。不思議なことだが、そう解釈するしかない。 葵の帰りが遅いと心配して冬耶や遥が来てくれたのなら、こんな真似はせずにすぐに起こしてくれるはずだ。 いや、普通こんな所で一人びしょ濡れの状態で眠りこけている人に気付いたら顔見知りでなくても、起こして帰るよう促すぐらいのことはしそうである。少なくとも葵ならそうする。 でもこのコートの持ち主が優しくないと言いたいわけではない。むしろこんな寒い日に、それも雨の中自分のコートをただ黙って置いて行くことのほうが葵には真似できない親切だ。おそらく葵と面識のない人であるのだろうから尚更だ。 コートを返さなくてはならないし、お礼も言いたい。 葵はそう思って持ち主のヒントになるようなものを探したのだが、裏にイニシャルが刻まれる学校指定のコートではないし、ポケットにも何も入っていない。個人で仕立てたものなのか、ブランド名すら無かった。 葵に分かったのはコートのサイズから持ち主が葵よりは背が高そうなものの、兄たちに比べれば華奢な体格をしているだろうということ。そしてコートに染みこんだ花の甘い香りをその身にも纏っているはずだろうこと。 大したヒントにはならないが、この香りさえ覚えておけば廊下ですれ違ったりして、ひょんなことで出会うかもしれない事態に備えることが出来る。 「ありがとうございます。少しだけお借りします」 葵は顔も分からぬ恩人に礼を言って、濡れたブレザーの代わりにそのコートに袖を通させてもらった。

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