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act.8月虹ワルツ<366>

* * * * * * 「で、結局その人には会えなかったんだ?」 背中に引っ付いたまま数ヶ月前の思い出話をしてくる葵が一旦口を噤んだのを見計らって、櫻は茶々を入れた。すると、葵は生意気にも櫻の背中をぺちぺちと叩いてくる。 「終業式の日までって言ったじゃないですか。櫻先輩が一番分かってるくせに」 「何のこと?」 気まずさから顔を上げるタイミングを逃した櫻は、未だにピアノに突っ伏したまま。でも今の葵の表情は見なくてもよく分かる。白く柔らかい頬を目いっぱい膨らませているに違いない。いちいちそういう可愛い顔をして反応するから、櫻はこうして葵を苛めたくなるのだ。 「櫻先輩の匂いとコートの匂いが同じだったんです」 「へぇ、奇遇だね」 「だから、あれは櫻先輩だったんです」 「葵ちゃんは学園中の生徒の匂い、ちゃんと嗅いだの?同じ匂いの人なんて他にもいるかもよ?」 「それは……嗅いでません、けど」 律儀に返事をして勢いを失ってしまうところも櫻からすると可愛くて仕方ない。どうしても櫻に認めさせたいと奮起するくせに、いつもこうして簡単に言いくるめられるのだ。少しぐらい学習してほしいが、それが葵のいいところだ。 「でも終業式のあと櫻先輩が教会で同じ曲弾いてました」 「本当に同じ曲だって言い切れるの?そもそも葵ちゃんが眠っている間に誰かがオルガン弾いてたなんてね。ただの夢じゃないの?」 「……ちゃんと聴いたもん」 葵がこんな口調になり始めたら、もう櫻の勝ちは決まりである。 「それにあの曲、他の人も弾けるかもしれない。たまたま僕と同じ匂いの人が、同じ曲を弾けて、葵ちゃんにコートを貸してくれたのかもしれないよ」 「そんな偶然」 「無いなんて言いきれないよね?」 今回もこのやりとりは櫻の完全なる勝利に終わったようだ。悔しそうに唸りながら抱きついてくる葵の軽い体を感じながら、櫻はつくづく自分の愛情表現は歪んでいると自覚した。 反省したばかりなのに、やはり愛しい子を苛めたくて仕方ない。 演奏会にまで足を運んでくれた今日ぐらい、あのコートの持ち主は自分だと、認めてやってもいいのかもしれない。葵の話を聞いている最中はそう思っていたのだけれど、悪戯心がつい芽生えてしまった。 だが、葵から”いじわる”なんて控えめな悪口を浴びせられれば、櫻もせめてものお詫びに出会った当時の事を少し思い出してみることにした。 葵が言う“あの日”から遡ること 半月ほど前。今まで拝んだことのないような不可思議な顔つきで友人、忍がやってきたことが事の発端だった。

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