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act.8月虹ワルツ<367>

* * * * * * 期末試験後に行われる定期演奏会。それに向けて準備した楽譜に目を通していた櫻は、同室者が戻ってきた気配を察して顔を上げた。 仲が悪いわけではない。気が向けば会話もするし、連れ立って食堂に行くことだってある。むしろ櫻にとっては珍しいぐらいに親しい相手だ。ただ同室も五年目ともなると、“ただいま”や“おかえり”を言い合うことはなくなる。 だがその日の忍の表情を見た瞬間、声を掛けずにはいられなくなった。いつだって冷静沈着で隙を見せない彼が明らかに動揺していた。自らの唇を指で触れる仕草も、いつものように余裕のある色気を感じるものではない。 「まさか、誰かに唇奪われでもしたの?」 黙って自室に戻ろうとする忍を引き留め、からかう言葉を投げつける。忍に限ってそんなことがあるはずがない。その予想通り、彼は一瞬驚いた顔をしてこちらを振り向くと、櫻の軽口を否定してきた。 「いや。奪ったが正しいな」 「なんだ、通常営業だね。じゃあなんでそんなに動揺してるわけ?」 櫻の指摘に対し、忍はしばらく沈黙を貫いた。こうして答えに詰まることも彼にしては珍しい。そのうえ、結局答えを渋ったまま自室に戻ってしまった。彼自身も己の心情に戸惑っているように見える。 その夜忍が珍しく誰の部屋を訪れることもなく、また招き入れることもないまま一人で眠りについたことも櫻の疑念をますます強めることとなった。 ただその一日だけならば、そういう気分の日もあるのだろうと思えるが、三日も続けばさすがに異常事態だと思わざるを得ない。 常に学年トップクラスの成績を誇る忍が、その真面目さとは裏腹に毎晩複数の遊び相手と関係を持っていることは周知のこと。同室者として夜な夜な被害を被ってきた櫻としては喜んでいいことではあるのだが、彼の急な心変わりの理由が気になって仕方がない。 生まれた時から北条グループの大事な跡取り息子として英才教育を受けてきた忍は、何事も完璧にこなす厭味なほど出来た子に成長していたが、その重圧の歪は確実に彼を蝕んでいた。 中学に入った頃からその耽美な容姿が際立ってきた彼には当然のように性的な付き合いを求める誘いがあちこちから降りかかり、それを忍は楽なストレス発散だと受け取って溺れて行った。呑み込みの速さはこういった分野でも顕著で、ほんの数週間で年不相応の天下のタラシが誕生してしまった。 “遊んでやっている”という尊大な態度は決して崩さなかったけれど、実際後腐れなく人肌を求めることの出来る関係に救われている部分が多いのだろうと櫻は思う。だから自分の都合に合わせて甘い蜜を吸える生活をきっとそう簡単に捨てられまいと諦め半分で見守っていたのが、一体どうしたというのか。 さすがにそれ以上放っておくことは出来ずに、四日目の朝、一番無防備であろう寝起きの彼を捕まえて問い正すことに決めた。 「俺より早く起きているなんて、珍しいな」 二人の共用スペースに出る前に軽く身支度を整えたのか、忍はすでに制服を身に纏い、寝癖一つない髪型で現れた。対して櫻はまだ寝巻きのまま。涼しげな顔で見下ろされるとやや分が悪い。

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