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act.8月虹ワルツ<369>

櫻は生まれてこの方、誰かを愛おしいと感じたことは一度だってない。大人の醜い欲にまみれた愛憎劇の中で育ったゆえに歪みきった性格になった自分には、きっとこれから先もそんな感情が芽生えることはないと思う。 そもそもそんなことは望んでいないのだけれど、自分と同種の人間だと信じていた忍がいざ恋に落ちてしまうと、置いてけぼりをくらったような気分にさせられる。 忍は一人だけまともな世界に浄化してしまったのだ。櫻はまだ捻くれて、歪んだ人間のまま。悔しいような、少し寂しいような。 けれど、短気な櫻が感傷に浸って大人しくしていられるのはほんの一時だった。 「相手は?誰?学校の人間でしょ?」 「誰かを言うつもりはない」 「はぁ?そこまで言っといてなんなの」 中途半端な情報を与えられて翻弄されたこちらの身にもなってほしいと、櫻は忍を睨みつける。すると彼は不意に落ち着きを取り戻して真っ直ぐに視線を投げ返してきた。 「余計なちょっかいは掛けないでほしいからな」 「僕が友人の恋路を妨害するような人間に見える?心から応援してあげるのに」 「どうだか。まぁ、バレるのも時間の問題だろうが、とにかく邪魔はするなよ。あれは俺が先に見つけたんだ」 忍がこれほどまでに念押しする訳が分からなかった。まるで櫻が忍のお気に入りの子を横取りしかねないような言い方だ。だから教えたくないと、そう聞こえる。 恋愛に特別な興味はないし、容姿も中性的に捉えられがちだが、櫻だって男だ。好みのタイプぐらいはある。 でも自分に見合うような容姿の持ち主がいいという最低限の条件をまず満たしてくれる者などそうそう居ない。それを知っている忍がどこか確信を持って言うのだから、ますます相手が気になって仕方がなかった。 「自分がこういう気持ちになって初めて気が付いたが、お前ももう意識はしているよ。それが最大のヒントだ」 困惑する櫻に、忍はこう言い残して満足したように話を切り上げ、身支度を整えるために洗面所に向かってしまった。その背を見送りながら、櫻は知る限りの生徒を思い浮かべてみたけれど、答えなど見つかりそうもなかった。 そのまま釈然としない苛立ちを抱えて櫻はその日一日を過ごした。忍と相手が接触する場を見ればいいのだと考えたが、向こうもそれを見越していたのか警戒している様子でラチが明かない。 仕方なく、忍の色恋にはもう興味がないというポーズをとって油断を誘い、数日後。ようやく警戒が薄れてきたことに気付いた櫻は、連日のように放課後そそくさと教室を後にする彼を上手に尾行してやっと問題のお相手を知ることが出来た。 生徒会長のお気に入り。特例で役員にまでなった藤沢葵。 忍の言う通り、確かに容姿は文句なしの合格点をあげられる。学園内で一番好みだとも言い切れた。でも残念ながら生徒会長に可愛がられ、権限が自由に使える役員という座まで手に入れている彼の中身を櫻は信用できなかった。

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