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act.8月虹ワルツ<370>

忍も同じ意見だったはずだ。生徒会長やその周辺の人間たちと関係を結んで、甘えたい放題に振る舞っているのだろうと、苦労を知らなそうな彼を嫌悪する会話すら交わした覚えがある。 それなのに、図書室で勉強会、なんていう健全すぎるデートにすら嬉しそうに頬を緩め、忍までもが葵を甘やかしている。 あの調子なら忍は次期生徒会の役員に名乗りをあげるつもりに違いない。だから櫻と同室で過ごす時間が近いうちに終わるような発言をしていたのだと納得もさせられる。 櫻も忍には負けず劣らず高い水準で成績を維持してきた。そのせいで、生徒会役員の候補の中に勝手に名前を連ねられてしまっている。櫻自身には全くその気がないというのに迷惑な話だ。 これで忍が立候補でもすれば、何かとペアで名前が出されることの多い櫻まで飛び火を喰らいそうである。 櫻はそれ以来、忍と必要以上の会話をするのを避け、校内や寮で葵を見かけても視界に入れないよう心に決めた。すると、今まで思いのほか忍との会話を楽しんでいた事や、随分と葵を目で追っていたことを自覚させられて、無性に惨めな思いを味わうことになってしまった。 “意識している”という忍の言葉はこういう意味だったのだ。よくよく考えれば、櫻も忍も嫌いな人間の存在をとことん無視するタイプ。視界に入れるのも、話題に上らせるのも鬱陶しいといった調子に。 だから見かけるたびにコメントし合っていたのは、きっとそれだけ葵が気になって仕方なかったからだろう。でも櫻はそれが好意だとは意地でも認めたくなかった。 葵が言う“あの日”が訪れたのは。そんな時だった。 月島家の人間に知れたら癪だが、募る一方の苛立ちを解放するために櫻がとれる方法といえば演奏することしかなかった。 しかし忍と同じ部屋でピアノをいじる気にはなれない。期末試験が終わったと同時に葵との勉強会も終了してしまったらしく、暇を持て余しながら葵に思いを馳せている様子で鬱陶しいことこの上ないからだ。かといってわざわざ手続きをして音楽室を借りることも面倒だ。 そういった時の櫻の逃げ場所が滅多に人の訪れない古い教会で、心の癒しがオルガンだった。 暖房設備など整っていない場所で少しでも長く演奏を楽しむためにコートを着込んで、かじかむ手を温めるためのカイロも持参する。出掛ける準備を整えるなり降り出した雨のせいで、傘なんて余計な荷物も増えたが止むをえまい。 これほど激しい雨が降っているなら先客はいないだろうと有難がることにして、櫻は一人教会へと向かった。 櫻の予想通り、傘についた滴を振り払って入った教会にはざっと見たところ誰もいない。 冷えた空気が質素な造りの教会中に張りつめていて、清々しい。これなら音も綺麗に通るだろうと櫻は満足して奥にあるオルガンへと足を進めた。 教会には礼拝をしに来る者はいても、オルガンを演奏しに来ようという人間は櫻の他にいない。だからオルガンの鍵盤を守る蓋にはうっすらと埃が溜まっている。 以前は定期的に神父を呼んで礼拝を行っていたと聞くが、それが無くなった現在教会はかろうじて存在意義を確保しているものの、可哀想だがオルガンは無用の長物と化している。

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