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act.8月虹ワルツ<371>
小型のオルガンは教会の雰囲気に合わせて端々に控えめな彫り物がされているだけで、至って質素。でも時を経ても木目は艶を失わない。清廉な音を弾きだすことからもそれなりに良いものなのだろうと櫻は思う。
だから尚更今の扱いが不憫だった。
櫻はまずポケットに忍ばせていたハンカチを取り出して表面をさっと拭ってやる。そして蓋を開けて二段に重なった鍵盤も同じように一撫でした。
簡単すぎる手入れを終えると、櫻は一番端にある高いキーに指を乗せて力を込める。静けさを破った音は柔らかく響いた。そのまま適当に複数のキーを押し、前回触れた時と同じように音には然程ずれがないことを確認する。
これが済んでようやく、櫻はオルガンに向き合うために椅子に腰かけることが出来る。まだ脱ぐ気にはなれないコートのせいで多少腕が動かしにくいが、清い空気が満ち溢れたこの場で激しい動作を必要とする曲を弾くつもりはない。
かじかんだ指先をカイロの人工的な熱で溶かし、準備を整えると、櫻は一つ深呼吸をして鍵盤に両手を置いた。
まずは教会に対しての挨拶代わりに礼拝のための短い前奏曲を披露する。
鍵盤を持つ楽器としては毎日触れているピアノと同じだが、オルガンは生み出す音も演奏手法も異なるから初めの一曲はいつだって不可思議な緊張に襲われる。厳かな場所に似合う無音を、柔らかな音色が幾重にも連なって侵食していくことへの後ろめたさもあった。
でも櫻はその感覚が嫌いではない。気に入っているからこうしてまめに足を運んでいるのだ。
前奏曲を弾き終える頃には、いつも通り指が滑らかに動くようになっていた。
だから櫻は教会に反響していた音が完全に消えるとすぐに次の曲に取り掛かる。曲目は決めていない。神には一曲だけ捧げれば十分だ。荘厳で華麗な既存曲を演奏するつもりはもう無かった。
その日の気分に任せ、指に鍵盤を弾かせ、革靴でペダルを踏み込む。ただ気の向くままに心に浮かんだメロディを音に変えていった。
月島の人間が聴いたら卒倒しそうなほど自由すぎる櫻の作曲。音楽一家の一員である櫻は演奏者として理論も勉強させられてきたから、基礎が滅茶苦茶なわけではない。
だが、クラシック音楽にのみ凝り固まっている彼らにはジャズやポピュラーミュージックなど多ジャンルの音楽にも柔軟に耳を傾けている櫻が生み出すセンスを受け入れられないだろう。
良いものは良い。それが分からなければ一生この指が紡ぐメロディを凌げやしないと、独特の不協和音を美しくオルガンで響かせながら櫻は笑った。
だが、気持ち良く演奏に浸っていた櫻を突然の雑音が現実へと引き戻した。
「……っしゅん」
それは小さな子供がするようなくしゃみ。そういった人が生み出す生理的な音に邪魔をされるのが一番腹立たしい。
「誰?」
櫻はぴたりと手を止めて教会中を見渡した。しかし出入り口の扉が開けられた音もしないし、くしゃみの主の姿はやはりどこにも見えない。となると、どこかに隠れているのだろう。
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