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act.8月虹ワルツ<372>
大切な孤独の空間に他人が土足で入り込んでいたことを知って櫻はさらに苛立つ。呼びかけても謝罪ひとつせず隠れたままのその人物を見つけ出して文句の一つでも言ってやろうと立ち上がった。
それほど広くはない教会。隠れるのに適した場所も少ないため、ぐるりと一周する前に櫻は犯人を見つけることが出来た。
木肌が剥き出しになってささくれ立った箇所もある古いベンチ。何列にも並べられたその一つに寝転がっていたのは、櫻を今日この教会へと赴かせる要因にもなった人物、葵だった。
小さい体を一層小さく丸めている彼はどうやら眠っているようだ。
これほどコンパクトに、そして静かに気配を消して寝ていたから櫻が教会を訪れた時にもその存在に気付けなかったのだと納得して、怒りは少し収まる。眠っている彼には櫻の演奏も耳に入っていないのだろうからその点も大目に見てやろう。
相手が夢の中だと分かれば、ここ数日視界に入れないようにしてきた彼のことをじっくりと観察できる。櫻は前のベンチの背に凭れかかって、葵を見下ろした。
濃く変色した鼠色のブレザー。濡れそぼった髪。ベンチの足元に広がる水溜り。どうやら外で突然の雨に見舞われ、この教会へと避難してきたようだ。
こんな固いベンチで、びしょ濡れのままよく眠れるものだと櫻は感心さえしそうになったが、さっきのくしゃみを思い出す。当たり前だが、体は冷え切っているはずだ。
それを如実に表すかのように、元々白い肌は青くさえ見える。いつもは桃色の唇も血の気が失せていて、微かに震えていた。寝息に合わせて上下する体も、時折震えが走る。
潔癖を自覚している櫻は自ら他人に触れることをいつもなら徹底的に拒むのだが、濡れた葵を見て自然と手を伸ばしていた。
金髪、と一言で表しがたい不思議な色をした髪にまず指先を触れさせる。ブリーチを重ねて作り出す幸樹の髪のような金色ではなく、どちらかというと櫻が好んで飲むようなミルクティーによく似た色をしている葵の髪。
濡れている状態でも指触りは良くて、嫌悪感は生まれない。むしろ、近くで見ると、単純に一色では構成されていないその髪色の美しさに惹かれて、もっと触れていたいと思うほど。
髪と同じ色の長い睫毛に縁どられた瞼にもそっと触れ、白い頬へと指を滑らせた。その肌は柔らかく、氷のように冷たい。
まるで本当に血の通っていない人形がそこに転がっているようだった。顔だけは櫻の好み通りにあつらえたようなえらく綺麗な人形。
教会という場に合わせて表現するならば、穢れを知らない無垢な天使のようだとも言える。己の体を抱きしめるように眠るポーズも神聖な儀式のワンシーンのように見受けられた。
しかしブレザーを掴むその小さな手の状態が何やらおかしい。それに気づいた櫻は、明かりの付いていない教会内でその手をよく見るために目を凝らした。
そこには血管が透けて見えるほど薄く白い肌に不似合いなものが書かれていた。部活の名前と、それを打ち消す線の数々。左手にだけびっしりと浮かんでいるからおそらく自ら書いたのだろう。
ベンチの端に置かれたプリントの束は上の一枚を見る限り、冬休み中の部活動申請書で、きっと葵はこの回収に奔走していたのだろうと、そこまで容易に想像がついた。
どうやら生徒会長の庇護に甘えて気ままに遊んでいるだけ、という葵の印象は少し変えてやってもいいようだ。
いや、本当は櫻も気づいてはいた。葵は与えられた仕事をサボっているわけではないし、むしろ生徒会に積極的に参加している。その姿を見ていた。
それに忍と一緒になって葵を悪く言うと、生徒会の役員である友人奈央がムキになっていつも反論してくるのだ。一番下の学年だからといつだって進んで雑用を引き受けてくれる“いい子”だと。
にしても、自分の手をメモ代わりにする天使なんて、貧乏くさすぎてたまらない。
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