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act.8月虹ワルツ<373>

せっかく綺麗な容姿をしているのにもったいないと呆れているうちに、櫻は自分が知らず知らず頬を緩めていることに気が付いた。慌てて和みかけた表情を引き締めたけれど、どうして葵を見てそうなったのか分からなくて苛々する。 だから櫻は彼が目覚める前にとっととその場を立ち去ろうと思った。そもそも演奏を邪魔された時点で早急に教会を出れば良かったのだ。 だが、寄り掛かっていたベンチから離れ一旦は扉へ歩き出した足は自然に止まる。 葵は確か見た目を裏切らず相当体が弱いはずだ。退屈な授業中、窓からグラウンドを何気なしに見下ろした時、木陰で一人体育の見学をしている葵の姿を見つけたことは一度や二度のことではない。 熱が出やすい体質なのか、何日か続けて学校を休んでいることも多い。今では明るい表情の多い葵が、中等部までは賑やかな教室に入るのさえストレスに感じるほど内気で、その度に腹痛や吐き気を催して倒れていたとも聞く。 そこまで思い返してまた、櫻は自分自身に苛立った。なぜこれほど葵の情報を把握しているのか。 “櫻はどうしてそこまで葵くんを意識するかな。嫌だったら構わなければいいのに” いつか、奈央に言われた通りだ。でもあえて反論するならば、構わずにはいられず櫻の平静を崩す所が嫌なのだ。好きで文句を言いたいわけじゃない。 むしゃくしゃした気持ちのまま、もう一度葵を置いて去ろうとするが、やはり足は動かない。この状態の葵を櫻が放置すればどうなるかなど明らかだからだ。自己責任だと突っぱねたくても、目の前でますます青ざめて震える葵を無視することは出来なかった。 かといって、起こすような真似はしたくない。直接葵と言葉を交わすことが怖かった。心がこれだけ不安定な状態では葵にどんな酷いことを言ってしまうか自分でも想像がつかないからだ。 それに、葵を心配したなんてことがもし忍たちにバレたらもうどんな顔をしていいかさっぱり分からない。高すぎる自分のプライドがこんな時恨めしくなる。 櫻は妥協案として、葵の体に自分のコートを掛けてやることにした。幸い、コートには持ち主が櫻だと示すものは何一つない。葵をどれほど温めてくれるかなどたかが知れていたが、無いよりはマシだろう。 櫻の体温が残るコートが心地よかったのか、きつく結ばれていた葵の唇が少しだけ緩んだ。それを見たら櫻までまた表情が和らいでしまう。 得体の知れない感情を湧き上がらせる葵は、今の櫻にとって畏怖の存在でしかなかった。 今後はもっと徹底的に関わらないよう努めよう。もちろん葵と直接言葉を交わしたことはまだ一度もない。けれど、葵のことを考えるのも、姿を見るのも、声を聞くのも、これから何としてでも避けることを誓う。 この想いが何かなど知りたくなかった。もう一度、自然と葵の頬に触れて、そして今度こそ彼の傍を離れる。 厚手のコートを失っただけで外気は櫻の体温を容赦なく奪っていく。自然と小さなカイロを両手で包んで暖を取った時、これを葵に置いて来てやれば良かったと気付いた。しかし同時に、決心してすぐに葵のことを気にかけてしまった自分に嫌気がさした。 だからわざわざカイロを置きに戻ったりはしなかったが、代わりに差しかけた傘を閉じて教会の扉に立てかけておいた。 雨の勢いはここにやってきた頃よりも増している気がしたが、冷静になりたかった所だからちょうどいいのかもしれない。 強い雨に打たれながらの帰り道。この雨が、胸に宿るぐちゃぐちゃの思いを全て洗い流してくれればいいと、そう願った。

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