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act.8月虹ワルツ<374>

* * * * * * 変わらず顔を伏せたままの櫻がとうとう葵の喋り相手にさえなってくれなくなってから、どれだけの時間が経っただろうか。 あれだけ頑なに自分ではないと言い切るのだから、櫻にこの話題は禁物だったのかと反省したのだが、考え事でもしている風の櫻からは不機嫌なオーラは感じられない。 出会った頃は、ころころと変わる櫻の機嫌や言動に振り回され、よく泣かされていた。けれど、付き合いを続けていくうちに彼の内面を少しずつ覗けるようになった。まだからかわれっぱなしではあるが、それでも櫻の気持ちが分かるようになってきたと葵は思う。 だから今はおそらく黙って櫻に寄り添っているのが正解なのだろう。この時間が心地良い。とはいえ、ただ黙っているのでは手持ち無沙汰を感じてしまう。 葵はこっそりと手を伸ばして、櫻の艶やかな髪を一房すくってみた。見た目通り柔らかくて、滑らかなその髪を三つの束に分けて、ゆっくりと編み込んでゆく。たまに遥や都古の長い髪でもこうした遊びをするのだが、櫻の髪でさせてもらうのは初めてだ。 「……こら、何してるの」 久しぶりに櫻が言葉を発してくれた。きつく叱りつけるのではなく、呆れたような苦笑混じりの声。 「三つ編みです」 「それは分かってる。あとで舞台上がるんだから、癖つけないでね」 「はーい」 短いやりとりのあと、すぐにまた沈黙が訪れる。やりすぎないように嗜めるものの、葵の行動を許してくれるらしい。だから葵は言われた通り、緩く緩く編むよう心掛けた。 櫻にはいつもおもちゃにされがちな葵だから、逆の立場は新鮮で楽しい。だからつい夢中になって二房目に取りかかろうとした時だった。 空調の風さえ聞こえる静かな空間に、金属がぶつかるような派手な音が響いた。防音効果を得るためにやけに分厚い銀色の扉のドアノブが回される音だ。 葵は忍が帰ってきたのだろうと呑気にドアのほうを見やったのだが、櫻は違った。慌てて体を起こし、半ば突き飛ばすように葵の体を引き離した。そして緩い三つ編みで絡んだ髪の毛を手早くかき乱して元に戻してしまう。 あまりに急な拒絶に、葵はただ茫然と櫻を見つめて立ち尽くすしかない。 乱暴にノブを回したくせに、実際扉が開き切るには少し時間を要した。最初に入ってきたのは葵の予想通り忍だったが、後ろから律も一緒についてきている。 それを見て、ようやく葵も櫻の行動の意味を理解した。忍の親戚と紹介されている葵が櫻に抱きついて髪をいじっている所を見咎められたら言い訳が非常に苦しい。 だから忍も音を鳴らして注意を促してくれた上に、不自然にならない程度の間を開けて入ってきたのだろう。室内がどんな状況になっていてもいいように。 櫻も忍も、年が一つ違うだけなのに自分よりも随分大人だと、葵はこんな時しみじみ思う。

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