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act.8月虹ワルツ<375>
「葵くん、ごめんね。唱が迷惑かけちゃったみたいで」
さっき会った時と変わらぬ人懐っこい笑顔で、律が葵の傍までやってきた。その瞬間、櫻の視線が一瞬厳しくなり、緊張が走ったことを肌で感じ取る。
律には引き続き櫻とは距離があるフリをしたほうがいいのだろうか。分からないうちは大人しくしていたほうがいいと思うが、親しげな律と話していると、ついボロが出てしまいそうな気がして心配だ。葵は律の言葉に軽く首を振って答えるだけにとどめておいた。
あからさまに困惑した空気を出してしまっていたのか、だんだんと迫ってきそうな律との間にすぐ忍が入って助けてくれた。
「葵、そろそろ客席に行こう。今からでも座りやすい席を律が特別に用意してくれたようだから」
「こんな所で時間潰してるなんて思わなかったよ。席は忍くんに伝えてあるから、今度こそ俺の演奏聴いていってね?」
二人の言葉で、いつのまにか時計の針は午後の演奏が始まっている時刻を指していることに気が付いた。あらかじめ用意された席では、プログラムの合間に入るとしても周囲に迷惑がかかってしまう。律の気遣いがありがたかった。
でも“こんな所”といって櫻を見やった律の表情がどうも葵の胸に引っかかる。
「律も早く戻ったほうがいいだろう?付き合わせて悪かったな」
「全然構わないよ。じゃあ行こうか」
「え、あ……はい」
エスコートをするように忍に肩を組まれたのはいいとして、反対の手を律に取られるとは思わなかったから葵は動揺をうまく隠しきれなかった。それは後ろから見ていた櫻も同じようで、はっきりとした舌打ちが聞こえてくる。
「兄さん、出番までまだ少し時間あるけど、ちゃんと準備しておいてね。父さんたちが心配してるから」
まるで櫻の舌打ちなど耳に入らなかったかのように律はそう言うと、先陣を切って部屋を出て行ってしまう。当然手を繋がれている葵も、その葵の肩に腕を回している忍も律に続いていかざるをえない。
心配で振り返った葵は、櫻が相当気分を害していることがすぐに分かった。でも櫻は葵と目が合うと声には出さず、口の動きだけで“ごめん”と伝えてくれる。また怒りを爆発させるような事態にならずに済んで安堵したが、葵はどうにもいたたまれない。
自分が不自然な設定でこの場にいるせいで余計な諍いごとを起こしてしまっている気がする。謝るべきは自分だろう。
控室が並ぶ廊下の途中で律と別れたあと、葵はすぐにでも忍の意見を聞きたかったのだが、悠長に話をしている時間はなく断念せざるを得なかった。
律が用意してくれたのは、ホールの出入り口に近い通路側の席。忍と二人、滑り込むようにその席に座り、観客の輪に加わった。忍が気を利かせてパンフレットを指差して今どの演目かを教えてくれたから、あと幾つかで櫻の出番がやって来るかをすぐに確かめることが出来た。
でも一体どのような表情で櫻は舞台に上がるのか、それを見た客席はどう反応するのか。色々なことが気にかかって仕方ない。
だから葵は途切れることなくホールを満たす音楽に耳を傾けながらも、櫻との思い出の続きを振り返って気を紛らわすことに決めた。
櫻と初めて言葉を交わした、終業式の日のことを。
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